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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.12.04
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~日本の最果ての島で~

    沖縄の染色=紅型(びんがた)

 たまたあるテレビ番組を観て書き出したこのシリーズも今日で10回目を迎えた。書くほどに面白くて熱中するのだが、話のネタはまだ尽きない。ただし、それを読者にどう伝えるかが問題。私自身は長年現地を観、資料を読み、日本各地で見聞きしたことや調べたこととも対比して自分なりに考えている積りだが、単なる歴史愛好者のためたまには不正確なことを書く場合もあるのを断っておく。

  

 ボケてるがこれは沖縄県の地図。中央下の赤い島が沖縄本島。その北にかなり離れて「硫黄鳥島」とボケて記された島も沖縄県。名前通りここはかつて琉球王朝が硫黄を採掘し、中国に輸出していた重要な場所。そのため1609年から琉球を支配した島津藩もそのまま琉球領とし、沖縄県に組み入れられた。沖縄本島と宮古諸島の間は300kmも離れている。先月中国とロシアの空軍機が通り抜けたのはこの海峡だ。宮古諸島の先にあるのが八重山諸島で、今回の話の舞台。

        

 宮古と八重山の位置関係は上の地図を参照されたい。この中で一番人口が多いのが石垣島で、島全体が石垣市。尖閣諸島も石垣市登野城と言う住所を持っている。一番面積が大きいのがイリオモテヤマネコで有名な西表島。人が住む日本最南端の島が波照間島。その他の小島を含めたのが竹富町だが、町役場は交通の便から石垣島にある。日本最西端の島が与那国島で、単独の与那国町。台湾までは80kmの距離。宮古島までは縄文土器や弥生土器が到達している。

           

 この地図は「八重山」の概念を表すためのもので、島の位置は不正確。「よなぐに」は本来ずっと左(西)、「はてるま」はもっと下(南)だが、距離が遠過ぎて入らない。尖閣諸島は石垣島のずっと上(北)に離れており、中国が虎視眈々と狙い、海警の艦隊をいわば常駐させているのもそのせい。八重山は古来から国境の島なのだ。

  

 これは竹富島の「なごみの塔」から見た赤瓦の集落。面白いことには、塔の周辺に「私たちは平家の子孫です。集落名に「赤」が付くのは平家の赤旗に由来します」と書かれた看板があったのには驚いた。沖縄本島には源為朝が来島して琉球の王の始祖となったとの伝説があるが、こちらは「箔」をつけるための創作だろう。竹富島には琉球王朝の出先の「蔵元址」があり、当時はこの小島が八重山の中心地だったのだろう。

     

 沖縄本島を統一して琉球王朝を成立させた後、奄美諸島のうち6島も制覇し、勢力は八重山諸島にまで及んだ。ところが波照間島出身のオヤケアカハチが石垣島で反乱を企てる。王朝の税が過酷なことと、無理な開拓が多くの人々を死に追いやった。石垣島や西表島には風土病のマラリアがあったため。琉球王朝にとってオヤケアカハチは反逆者だったが、八重山の人達にとっては英雄。

 左がその図だが、私には名前も姿も日本人に見える。平家の落人か倭寇の血を引くのではないか。彼を討ったのが宮古島の豪族「仲宗根豊見親」。つまり琉球王朝は自ら手を出さずに、先島の島民同士を戦わせたのだ。右は「クスクムリ」と言う名の狼煙台(のろしだい)で波照間島にある。「クスク」は城のぐすくだろうし、「ムリ」は盛り上がった場所のこと。日本語の古語と同義だ。私もこの傍をマイクロバスで通った。

    宮良殿内

 これは石垣市にある宮良殿内(みやらどんち)。殿内は身分の高い人の住宅の意味。国の重要文化財に指定されている。オヤケアカハチを征伐した宮古島の仲宗根豊見親は、「八重山頭職」に任命されたが、長くは続かなかった。その後の頭職を継いだのが石垣島の宮良家。宮良家の名乗頭(なのりがしら=直系の男子が受け継ぐ名の漢字一文字)は「当」の旧字である當。例えば宮良當壮だが、これは実在の人。

        宮鳥御嶽  

 私は石垣島へは仕事と観光で2度行った。仕事で行った際に観たのが博物館と宮良殿内。そして観光で行った川平湾の付近で、この御嶽に行った。ここは地元民しか入れませんと書かれた看板があったが、私は心の中で礼をして御嶽(うたき)に入った。うたきは沖縄本島での名前で、八重山では「おん」と言うことを知っていた。御嶽山も「おんたけ」なので何ら不思議ではない。

 外の鳥居は立派だが、神域は沖縄本島や離島と同様に香炉があるくらいの簡素さ。それが原始神道本来の姿なのだろう。私はバスガイドに尋ねた。「オヤケアカハチ」の墓はあるのかと。答えは「ある」だった。もし彼が琉球王朝に対する反逆者だったら墓を作るのは許されないだろう。きっと八重山のために戦って死んだ英雄は、目立たない場所にひっそりと葬られ、島人たちに篤く崇拝されて来たのだろう。

    石垣島の「唐人墓」

 観光で島を訪ねた時、早起きしてホテルから西に向けて走った。行った先にあったのがこの場所。今回ネットで調べて初めて謂れを知った。清時代清人が奴隷としてアメリカ船に積まれた。船員の横暴に怒った清人は船長らを殺害し、石垣島に逃げた。だが別のアメリカ船がやって来、犯人たちを探し出して殺した。そこで日本が仲裁に入って70人以上の清人を船に乗せて清国に送り返した。そのお礼と供養のため、後年中国人が中国式の慰霊塔を建てた由。

      久松五勇士顕彰碑  

 一方、宮古島には「久松五勇士」伝説がある。日ロ戦争当時、ロシアの軍艦を見かけた宮古の青年5人が通信基地があった石垣島までの100km以上小舟を漕いで伝えた。その急報により日本海軍の太平洋艦隊がロシアのバルチック艦隊を破った。私は「宮古島ワイドーマラソン」(100km)の途中、顕彰碑の前を通った。そんな風に全都道府県を旅しかつ走破した私は、ヤマネコの西表島でも「ちゅらさん」の舞台だった小浜島でも、早朝に起きて走った。今では腰を傷め、歩くのがやっとだが。マラソン右矢印歩く人足跡





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Last updated  2021.12.04 11:40:09
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