ウルトラ仲間の死を悼む
Hさんの訃報を知ったのは宮城UMC新年会の翌日だった。死因は虚血性心不全。ガンによる胃の全摘出術を一昨年の暮れに受け、抗がん剤による治療中だったようだ。亨年65歳。私の1歳下に当たる。 彼の名を知ったのは13年前。さるメーリングリストに加入していた時のことだ。農学博士の肩書きを持ち、実績のあるウルトラランナーであることが分かった。初めて会ったのもその頃。たまたま「鶴岡100km」に出た知人の応援に行った時だった。飄々とした風情の彼だが、ランニングを始めて約20年間のうちに、100km以上のレースを300回完走しているのだそうだ。 2度目の出会いは第1回の「佐渡島一周」。これには私もランナーとして出場した。彼の服装は長袖シャツとトレパン姿。頭にはタオルを巻き、リュックを背負わず腰にポシェットがあるだけ。「何だろうこの人は。そんな恰好で200km以上も走れるのだろうか?」。そんなありきたりの「常識」は、どうやら彼には通じなかったようだ。 レース後、彼は赤い石を一つ手にしていた。「赤玉」と言う集落の付近で拾った赤玉石と言う名の珍しい岩石らしい。翌年の第2回でもお会いし、その翌年はお台場の24時間レースでお会いした。第1回の「八丈島一周」でお会いしたのが最後になった。あの時も彼は八丈島のさる浜辺で拾ったとても重たい火山弾を、自慢そうに見せて解説してくれた。 レースの最中、しかも風速30mもの暴風の中、10kgもある火山弾を持って走るランナーが他にいるだろうか。あの日、私は赤い小さな石を拾った。彼に見せたら八丈富士の噴火時に飛ばされた軽石とのことだった。4回目の対面でようやく会話が成り立ったのだ。農学博士でかつ石に造詣が深いため、私はてっきり農学部で土壌学でも教えているのだろうと思い込んでいた。 ところが実際は大手の企業でサラダオイルの開発などを担当していたようだ。一度彼に「専門は何ですか?」と尋ねたのだが、「何でもですよ」との答えが返って来たため、「これは気難しそうな人」と感じていた。ところが彼の関心はとても広く、ヨーロッパの花の名前から、沖縄の漁のことまで何でも知っていたようだ。 4000kmを超える「トランス・ヨーロッパ」には2度出たが、2度とも体調不良で途中リタイヤと聞いた。それでも確か2000km近くは走ったはず。イタリアからノルウェイまでのレースでは一旦帰国して治療を受け、再びレースに戻って仲間のサポートに廻ったと記憶している。 「佐渡島一周」仲間では、R子さんも3年前にまだ30代の若さでガンのために亡くなっている。これで伝説のウルトラランナーが2人、天国に旅立ってしまった。期せずしてR子さんも、ピンクのトレパン姿がトレードマークだった。今頃2人は天国で、手を繋ぎながらトレパン姿で走っているのではなかろうか。Hさん、そしてR子さんも、どうぞ安らかに眠って下さいね。合掌。