エコーラインを越えて(2)
< 遥かなる道 > 愛犬の頭を撫でて家を出た。出発は3時33分。前回の笹谷峠越えの時より30分遅かった。大冒険を控えて興奮し、眠れないと困ると思い弱い睡眠導入剤を1錠飲んだせいで、5時間ほど眠れたようだ。朝食も前回ほどではないがしっかり摂れた。ただし前回は体調を維持するためにグレープフルーツ、トマト、キュウリなどを持ったが、今回はエネルギーに変換出来る食料を中心にした。 リュックの重さは6kgほどか。ずっしりと肩に食い込むリュック。果たしてこんな重たいリュックを背負って、あのエコーラインを登り切れるものだろうか。一瞬私の心に不安が過った。だがそれも自分が選んだことと覚悟を決める。さて今回の「エコーライン越え」だが、自分の中では次のように捉えていた。 第1段階は家から遠刈田温泉までの35km。まだ元気のあるこの区間はさほど心配な点はないはず。最大のポイントは遠刈田温泉手前にある鈴蘭峠越え。高低差は300m内外と予想。第2段階は遠刈田温泉から蔵王ハイライン入口までの15km。ここは1300mほどの登り坂で、コース中最も苦しい場所。過去3回練習で走っており、水飲み場などの情報が記憶に残っているはず。 第3段階はエコーライン最高部から蔵王温泉までの24km。全般的に下り基調となるはず。山形県側は傾斜も緩く、自販機も適当な間隔であるとの情報を得た。早めにゴール出来た際は、日帰り温泉に入ろうと楽しみにしていたのだが、結果は全くの見当外れに。例えマラニックでも油断は禁物。最後まで何があるか分からないのがウルトラマラソンなのだ。 10km地点手前、「赤石公衆トイレ」付近で2匹の子ダヌキが轢死していた。前週の笹谷峠越えの時も、この付近に大きなタヌキの死骸があった。ひょっとしたらあれが親で、今回は飢えた子ダヌキが餌を探しに道路に出たところを轢かれたのかも知れない。哀れなタヌキ一家に黙祷して通過。 5時38分、碁石小学校前到着。自販機で100円の缶入りスポーツドリンクを購入。6時10分釜房ダム前を通過。ダム湖の水が渇水で58%までに減ったと報道があったばかり。6時35分、杜の湖畔公園休憩所到着。5分間休憩し、スポーツドリンクを飲み、ワッフル1枚を食べる。 再び走り出して直ぐ、露出した肌がリュックと擦れたことが原因で痛みが発生。頸部冷却用の特殊パルプをリュックのベルトに巻きつけて改善を試みる。7時13分、笹谷街道との分岐点に出る。その手前に川崎伊達家の墓所があった。山形の最上氏と接する笹谷街道の守りを固めるため、要害に城を構え伊達一門をここに居住させたようだ。 ここから県道47号線を直進し、鈴蘭峠へと向かう。早くも太陽が顔を出して気温が上昇、慌てて帽子を被る。畑の中に縄文時代の遺跡が2か所。古い時代から人が住みついていたようだ。間もなく左手の曲がり角に標識あり。見に行くと「猿鼻街道(羽州街道)」とある。 蔵王町の宮で奥州街道に別れて羽前国(山形県)へ抜ける笹谷街道だが、猿鼻も宿場の一つだったことを前週知ったばかり。ところが猿鼻の地名は地図の何処にも残っていなかった。そのこともあって、宮からはてっきり蔵が多く街道の面影を色濃く残す村田町を通ったのだろうと推理していたのだが、まさかこんな細い道が旧街道だったとは。 その小道は小高い森の方に続いていた。恐らくあそこも峠なのだろう。人家が少ない寂しい道を、当時の人はどんな想いで往来していたのだろうか。「元々地上に道はない。みんなが歩けば道になる」。これは国会議員江田五月の父君である故江田三郎が好んで用いた言葉。道は人や物を運び、文化や宗教や様々な情報を遠方まで伝えた。長閑な田舎道を走りながら、私達の先祖が辿った遥かな道に想いを馳せた。<続く>