母の曾祖母は、百歳近くまで生きていた。背が高くて面長で働き者、野良仕事によく出かけた。しかし、世間の風は冷たく、子供や孫たちが死ぬ度に、彼女がその命を吸い取っている、と陰口を言われたそうです。
それで、彼女は自分の長寿を嘆き、プーッチ、スナバーユー(早く死ねばいいのに)と、当時7,8歳の母に口癖のように漏らしていたという。彼女の時代の平均寿命は短く、40を過ぎると、ほとんどがあの世へ旅立ち、60過ぎの人はあまりいなかったそうです。短命の原因は、納税の為の過酷な労働にもあったと思われる。人頭税とは17世紀から20世紀初頭にかけて、宮古、八重山の農民にかけられた税の事で、15歳から50歳までの男女がその納付義務者となっていた。
宮古島では粟約2石、7俵前後が1人当たりに割り与えられていた。しかし、それだけではなく、他に48種目に及ぶ物産(なまこ、貝柱、ジュゴン、猪皮、松脂、煙草、船具、など)、半布(30cm×50m)などを納めねばならなかった。さらに、公共工事に無償で従事する義務も負わされていた。当時の農民は朝4時に起きて畑仕事に就き、夜は月や星の明かりを頼りに懸命に働いた。
滞納者には脛やま、鋏棒、革鞭などによる恐ろしい拷問が科せられた。そういう時代に、母の曾祖母が、百歳近くまで生きていたという事は驚きであり、深い感動を覚える。彼女は 「アカミー・ウマ」 と呼ばれていた。