期待
キャンプも終わり、日常が戻っていた。「帰ったら連絡するよ」そう言って携帯の番号を森に教えてから1週間がたっていた。仕事をしながら森の連絡を待つ時間は忘れていた昔の淡い恋心に酔いしれる時間でもあった。仕事帰り、美咲を迎えに保育園に行く深雪。「ママおかえり~」屈託のない笑顔で迎えられると、仕事の疲れが吹き飛ぶ。「ただいま、今日もおりこうにしてたの?」「うん!きょうはカナちゃんと遊んだんだよ~」「そうかぁ。よかったね。楽しかったんだ」保育園に預けた当初は、大泣きして仕事に行く深雪を困らせていたのに、今ではすっかり慣れ親しんでいるようだ。「じゃあ、学童に寄ってお姉ちゃん迎えに行こうか」「うん!」美咲を車に乗せ、学童にあずけているゆかりを迎えに行く。「進藤さんお帰りなさい。ご苦労様です」迎え出てきたのは学童の指導員の市川だった。年は深雪と同い年で、若いが子供たちをしっかり指導してくれるよき青年だ。「どうですか?ゆかりは慣れてきましたか?」「ええ、少し友達と喧嘩してましたが、大丈夫ですよ」「複雑な事情で家庭が不安定なので・・よろしくお願いします」「わからない事があったら何でも聞いてくださいね」「ありがとうございます。では明日もよろしく」美咲が奥で友達と遊んでいる手を止め、深雪に近づいてきた。「お母さんおかえりなさい!」「ただいま。帰ろうか」「今日はご飯なに?」「今日は二人が大好きなハンバーグかな?」「わ~い!やったね!」二人を車に乗せ、今日合った事を話しながら帰路に着いた。夕飯を済ませ、子供たちが寝入った9時半、部屋の片づけをしながら一人ソファに横になると携帯が鳴った。え?公衆電話?誰からだろう?こんな時間に・・外からかけてくる友人はいない。深雪は首を捻りながら通話ボタンを押した。「もしもし?」「深雪さん?僕です。森ですよ」「え!?」声を聞いた途端、胸が高鳴り、心臓が飛び出してしまいそうなほど驚いた。そして、1週間待ちわびていた自分に気がついた。「お、お久しぶりです」「ごめんね、公衆電話だからびっくりしたでしょ?」「え、ええ。お仕事の帰りですか?」「そうです。今バスから降りたところで」「そうなんですか。お疲れ様です」「実はね・・」「え?」「深雪さんのマンションの近くにいるんですよ」「え!?」「ちょうど下にいるんです」深雪は携帯片手にリビングに走り、窓を明けバルコニーから下を覗き込んだ。暗くてよく見えないが、茶色のスーツにビジネスバッグを持った森が電話ボックスから手を振っていた。「よ、よければあがっていらっしゃいませんか?」「え?でもお子さんがいらっしゃるでしょ?」「いえ、もう二人とも寝ていますから・・」少し戸惑った様子の森だったが、「判りました。じゃあ、少しだけ・・」煙草を足で消して、ボックスから出て森がマンションのロビーに歩き出した。「ど、どうしよう・・・」深雪は誘ってしまった自分自身に驚いていた。別居をしてはいるものの、ここは夫のマンション。罪悪感にかられながらも、もう一度会いたいという気持ちを抑える事が出来なくなっていた。玄関のチャイムがなって、ドアが開いた。森があたりを見回しながら「本当に・・お邪魔してもいいのかな?」と、半ば申し訳なさそうに棒立ちしていた。「いいんです、どうぞこちらへ」玄関から森をリビングに案内し、ソファに腰掛けてもらうように言った。「広いお家ですね」「そうですね。外観より広いかもしれませんね」冷蔵庫からおもむろにビールを出し、テーブルに置いた。「あ、ビールですか?」「え?あ、ごめんなさい。お茶がよかったです?」「いえ、仕事から帰ってビールなんて久しぶりなんで。」目を細めながらビールを明け、美味しそうに飲んでいた。「今日はごめん。突然来てしまって」「いいえ、とんでもない。嬉しかったです」そう、本当に嬉しかったのだ。思いも寄らない出来事に、興奮冷めやらぬ状態であった。森の顔を見た途端、森を好きでいる自分を確認した深雪だった。「電話・・なかなか出来なくて。ごめん。いざ電話しようとすると何故か緊張してしまって」「・・待ってました」深雪は森の横に密着するように腰を下ろした。自分でもどうしたのかと思うほどに積極的になっていた。森の手を握り、いたずらっ子の様に顔を覗き込んだ。「・・会いたかったよ」「・・私も・・」唇が触れ、長い間接吻を交わした後、なだれ込むようにソファに横たわった・・。まだ湿った深雪の髪を繊細な森の指が撫でる。夢のような時間に陶酔しながら、森に抱かれていた。