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カテゴリ:教会の集まり
こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。
そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。 イエスは弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。 それで、ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともしびや武器を手にしていた。 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、 「誰を捜しているのか」と言われた。 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。 イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。 そこで、イエスが「誰を捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、 彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」 それは「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。 諮問・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に売って係り、その右の耳を切り落とした。手下はマルコスであった。 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか。」 (ヨハネによる福音書18:1~12) イエス・キリストが十字架の苦しみを受けるべく連行された場所は、いつも弟子たちと祈っておられた場所でした。ゲッセマネと呼ばれる園ですが「ゲッセマネ」とは、油しぼりという意味があります。「できるなら、苦しみを避けさせてください、でも御心のままに」オリーブを押しつぶして油をとるように、イエス様はご自分の心から、父なる神様の御心をしぼり出されたのでした。 丸腰のイエス様を捕らえに来たのは一隊の兵士、これはローマの軍隊の一単位で600人もの軍勢です。彼らが松明を掲げ、武器を帯びてやってきた。あたりは真昼のように明るくなったことでしょう。 イエス様はこれまでにも、しばしば捕らえられそうになったことがありました。その度に、人々の間を通り抜けるようにして逃れられました。 けれども、この時は違いました。「だれを捜しているのか」と自ら進んでご自分を表されました。彼らが捜しているのはナザレのイエスである、と答えると「わたしである」と言われたのです。彼らは何と倒れました。 カルヴィンは「イエス・キリストはたった一つの言葉で人を倒すことのできる力を持っておられる」と記しています。 「わたしである」ギリシャ語でエゴーエイミと書かれているこの言葉はI amと訳され、わたしがそうだ、わたしはここにいる、わたしだという意味です。これは、出エジプト記で神のなを尋ねたモーゼに神様御自ら明かされた、神様の名前です。 神であられながら人間として生まれ、共に住まわれたイエス様を現す言葉ともいえましょう。イエス様のご正体に触れて、屈強な兵士たちは倒れたのでした。 この栄光あるお方はご自分の言葉が実現するため、聖書の言葉を通して人々を救うことを実現するために自らの力を制限し、進んで十字架に向かわれ、死なれたのです。 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である(ヨハネ15:13,14)」と イエス様は言われました。イエス様はわたしたちを友と思うからこそ、ご自分の命を捨てられたのです。そして、あなたがわたしを友と思うなら、あなたが今度は愛を示してほしい、と言われます。 友には三種類があるそうです。 利益のための友 快楽のための友 徳のための友 利益や快楽のための友は過ぎ去ってゆく空しい関係で、友とは呼べないかもしれません。 イエス様は徳のための友、いのちを与える友、真実な友です。 わたしである。 神がわたしを友に選び、わたしに友になってくれと言っておられる。 真実をもってお応えできますか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.03.09 16:20:44
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