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カテゴリ:いろいろ
父が鬱病になった。 貿易商社に入社して三年目くらいのことだ。 親戚知人に大卒がいない、商社勤めがいない父には何の情報もコネも無かった。 やっと小さな商社に就職した社会人一年生に待っていたのは、突然の父親の死と 残した負債・・・・他人の借金の保証人になっていた・・・・だった。 がむしゃらに働いて数年、同期のコネのある者が昇級していくのに父は鳴かず飛ばす。 本社から大阪支社に飛ばされる始末。 父の言葉を借りれば「バッカな奴らが能力もないのに努力もしないで出世していく」
ある朝、父は起きられなくなった。
独身寮に引きこもってしまった父を心配してくれたのは、上司であるセンパイ。 センパイは「あいつは会社に必要な人材だから」と新婚家庭に父を引き取ってくれた。
センパイの家にはもう一人居候がいた。 センパイの奥さんの妹さんだ。 妹さんは結核を患っていた。 結核は当時まだ特効薬がなく流行っていた死の病だった。 日本はまだ貧しく、住宅も少なく、家族・親戚がひしめいて暮らす家は珍しくなかった。
父は同じ屋根の下、夜ごと響く咳の音を聞きながら幼い頃を思い出していたのだろう。 小学校三年のとき、父もまた結核を患って学校を一年休んでいた。 友達は移ることを恐れて家を訪ねて来ず、父が登校できるようになった時は先輩になってて、父は年下の子たちともう一学年勉強しなければならなかった。 咳の発作が起きると胸が痛くて苦しくて、座布団を重ねた上に腹這いになって耐えたという。 でも、身体の苦しみよりも、学校に行けないことの方がつらかったそうだ。 父の慰めは家に下宿していた朝鮮人留学生のキムさんが将棋を教えてくれたことだったそうだ。 (後年父がわたしの韓国人留学生の友人に良くしてくれたのはそれもあったかもしれない) 父の母親は一年生の時に亡くなっていて、二度目のお母さんが家に来ていたが、お母さんは父にかかる高額な医療費を捻出するために、惜しげもなく持って来た着物類を売り払ったという。
心の病で朝起きれない父と、夜ごと咳の発作で眠れない妹さんは昼過ぎに起き出して、センパイの奥さんが作ってくれた昼食よりも遅い食事をバツの悪い思いをして一緒に食べた。 父は必死にギャグを連発してセンパイの奥さんと妹さんのウケをねらった。 お世話になっているせめてものお礼もあったろう。 妹さんは東京から来た落語家みたいな男の話に涙を流して笑ったという。
人を力づけようとすると自分が元気になるとはよくあることだが、センパイ夫婦の介護の甲斐あって父は回復し、東京に呼び戻された。 父が東京をベースにフィリピン支店の開拓の下準備を始めた頃、センパイの奥さんから手紙が届いた。 妹さんが亡くなったしらせだった。
「幸い薄い妹の生涯に青春の喜びを与えてくださったことを感謝します」
父が妹さんに女性として想いを寄せていたのかどうかはわからない。 けれども、父の不遇のときに家族ぐるみで支えてくれたセンパイあればこそ、父は「バッカな奴らがのさばる会社」とボヤきながらも定年まで勤め上げた。 フィリピン、ブラジル支店の立ち上げをし、ロシア貿易には五十を過ぎてから着手した。 良いラワン材を求めてヘルメットをかぶり、カヌーにのって密林を行き 本社と唾を飛ばして電話で渡り合い 堪能な語学力を駆使して現地社員を鼓舞した父の働きは センパイの期待と それに心を合わせてくださった奥さんと 父の存在を喜んでくれた妹さんに育てられたのだと思う。
父は与える喜び、自分の力を駆使する楽しさを知っている人であった。
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Last updated
2009.07.23 01:37:17
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