今さらジョン・ウェスレーに学ぶ会
いずれ報告しますといって一月以上が過ぎてしまいましたが。。5月29日大阪であった聖会のレポです。メッセンジャーの久保木勁先生は北海道時代に何度かお交わり頂いた先生で、あたたかなお人柄にお会いするだけでルンパルンパ♪したくなる方です。?と思われるでしょうが、、、つまり、小さい子供のように素直な気持ちにさせられて、何だか嬉しくなってしまうのです。それもそのはず、先生は札幌ナザレン教会の牧師であられるとともに教会付属「こひつじ幼稚園」の園長先生でもあられるのです。「みこころがなるように」ルカ22:39~46祈りは教会のいのちです。教会は宣教・・・語ること、行動することからはじまったのではありません。教会は祈ることからはじめたのです。イエス様は十字架にかかられる前、弟子たちと過ごす最後の夜にゲッセマネと呼ばれる園でお祈りをなさいました。弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われたのです。でも、弟子たちは眠り込んでしまい、祈り続けることができませんでした。英国の聖徒アピりフォファイスは「祈祷の精神」という書物で最悪の罪は祈らないことである、と述べています。クリスチャンの間で生じる問題は祈らないことによって生じるのです。祈る、ということは自分の求めるところを神に申し上げることではなく神のみこころを確かめることが目的です。Yes,Noはフィフティーフィフティー。願いどおりにならないこともあります。それで、ほんとうに祈りはきかれるのか?という質問が生じます。はじめからNOはNO、だめなものはだめなのです。YESwをどこまでも期待するのはわがままというものです。わがままは誘惑を呼びます。祈らない教会、祈らない人は主を無視しているのです。さて、みなさん、愛することの反対は憎むことではありません。無視することです。主を愛していると思っているけれど主を無視する。憎んでなどいない、でも本気で愛しているのか。無視とは言葉を聞き流すということです。「だめだ」と言われていた、御言葉を知っていたエバが、その言葉を聞き流して取り返しのつかない結果を人類に招いてしまった。言うことを聞く、とは言う+聞く=その通りにすることであります。言うことは聞くが、言うことを聞かない、聞くだけで従わない。さて、ゲッセマネのイエス様の祈りの言葉はマタイ、マルコ、ルカの福音書にそれぞれ出てきますが、ニュアンスが違います。マタイは「できることなら」この杯を過ぎ去らせてください。マルコは「あなたは何でもおできになります」この杯をわたしから取りのけてください。ルカは「御心なら」わたしから取りのけてください。ご自分の願いではなく、父なる神の御思いに心を寄せておられるのです。かつて、ケズウィックの名説教師、パウロ・リース師が語っておられました。避けられない苦しみにあったとき、人はよく「わたしの十字架」と言います。しかし、災難は十字架ではありません。災難は避けられません。でも、十字架は避けられるのです。拒否できることをあえて担う。これが十字架です。十字架はアクセサリーにして飾るものではない。十字架は負うべきものです。御心がわからないとき、二つの選択肢があったら苦しいほうを選びなさい。十字架を負うことへの召しがあることをクリスチャンであるわたしたちは知らないといけません。日々自分の十字架を背負って主のあとに従うDay by Day 毎日クリスチャンになるのです。 毎日自分の十字架を背負うのです。先日札幌聖化大会で黒木安信師がナルドの香油のつぼを割る話をしてくださいました。打算という壷が砕かれているでしょうか。わがままな神の民でなく、主のいうことを聞く民になりたい。本心から御心が天だけでなく地にもならせたいと願っているでしょうか。祈りましょう。********このメッセージを聴いてから、祈るのに忙しくなりました。私が洗礼を受けた教会は祈る教会でした。水曜日の祈祷会は教会員の3分の2が集まって祈り金曜日の徹夜祈祷会は3分の1が集まって明け方まで祈っていました。私は熱心に祈る信徒ではありませんでしたし、祈りの世界に無理解でしたが、祈る人々の輝きと独特のきよい雰囲気の心地よさにしげく通いました。数年のうちにその教会は全国6箇所に開拓教会を拓くようになりました。今、私はふるさとをなつかしむようにあの教会の祈祷会を思い出しています。そして、先輩方が祈る姿に見よう見真似で加わったあの日、理解できなかったことを主に教えていただくために祈っています。