ジョン・レノンの命日
今日は、古くはあの忌まわしき日米開戦記念日、そして僕にとってはジョン・レノンの命日である。20世紀が生んだ、不世出のミュージシャン、アーティストは、27年前の今日、ニューヨークの自宅アパート・ダコタハウス前で、偏執狂的なストーカーの凶弾に顛(たお)れた。享年40歳。1980年12月9日の夕方、僕はたまたま東京・渋谷駅の山手線プラットフォームのキヨスクの新聞垂れ幕で、NYとの時差の関係で1日遅れになった悲報を知った。眩暈がした。まだまだ若かったが、僕の青春は終わったと思った。いや、僕個人の思い出などはどうでもいいが、遺作として、傑作アルバム「ダブル・ファンタジー」が残された。1970年、中学1年生の時、ビートルズとしての“遺作”(録音は「アビイ・ロード」の方が後)「レット・イット・ビー」との遭遇に始まり、立て続けに連打されたポピュラー音楽史上の最高傑作アルバム「ジョン・レノン/プラスティック・オノ・バンド(日本語タイトル「ジョンの魂」、通称「ジョンたま」)や翌'71年の「イマジン」によって、丸太で頭をぶん殴られるような強烈なカルチャーショックを受けて、すっかりロックミュージックの虜囚に成り果てた。この年から遡って、鮭が故郷の川を遡上するかのごとく、'60年代のロック、ポップスを貪るように聴いていった。と同時に、この時点を起点として、過去、未来両方向に散開するようにして、時系列的に同時代の音楽も聴いていった。ついでに言えば、レッド・ツェッペリンが「移民の歌(イミグラント・ソング)」で大ブレイクして、以後のロックシーンを主導する端緒になったのもこの年だった。さらに言えば、歌人・塚本邦雄や岡井隆を知ったのもこの頃。片思いのファースト&ロストラヴを経験したのもこの頃(ご無沙汰してます。お元気ですか? たまにはメール下さい)。僕がなんらかの表現行為をしたいと、最初に思ったのもこの頃である。話がそれたが、その時からジョンの存在(プレゼンス)は、僕の不動明王のごときものになった。死してさらに、神様になった。彼については、すでに語られ尽くされており、屋上屋を架して僕が付け加えることは何もない。また、あまりにも傾倒しすぎたので、ジョンその人が何者であったかを客観的に記述することは、到底不可能である。理想主義者であり、永遠の悪ガキであり、人懐っこく、また恐ろしく倣岸不遜な面も持つという矛盾を体現していた。これらを一言で覆えば、生涯を通じてピュアネス(純粋さ)を保持しえた稀代の人物だったとしか、僕には言えない。客観的なあらましはウィキペディアでも見てほしい。人種、民族、地位門戸、そして男女間を含め一切の差別のない、天国も地獄も宗教もない、永遠の平和を希求する彼の視座から見た、戦争と不正の絶えない醜い現実世界に向けた、ラディカルで過激ともいえる歌詞世界の清冽なインパクトは、僕らの胸から永久(とわ)に消え去ることはないだろう(典型的には、「イマジン」、「女は世界の奴隷か」など)。その反面、今なお西洋世界では隠然たる勢力を持つ、キリスト教原理主義(ファンダメンタリズム)陣営の一部などからは、激しい反発と攻撃を一身に浴びることになった。彼と、盟友ポール・マッカートニーには共に、英国では被差別民族であり、アイルランド分離独立運動の過激さでも知られたアイリッシュ(エール、ケルト)民族の血が流れているという。特に、マッカートニーの苗字のMc.はアイルランド系であると自ら言っていることに等しい(原義は、「息子」、「子孫」の意味で、-son,-sen、ロシア語の「スキー」などと同列)。マッカーサー、マクドナルド、マクガバン、いずれも同様であり、アメリカという新天地で成功したものが少なくない。ビートルズの燦然たるデビュー曲にしては、意外にも独特の哀愁漂う「ラブ・ミー・ドゥ」に、アイルランド民謡、アイリッシュ・ダンスのリズムと響きを聴いた人も少なくない。しろうとの耳にも、確かにエンヤの音楽にはあからさまである、ある種の民族的なたおやかなエレガンスと通底するものを感じる。そうした民族性(エスニシティ)も、いつも彼の音楽には静かに流れている。彼の理想(イデア)は、そのまま人類社会の公理となった。まるで、「永劫回帰」(ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」)のようだった。とはいえ、むろん、普通の大人であれば、彼が示した理念の実現可能性(フィージビリティ)については、まず懐疑的になるのは当然であろう。彼が「イマジン」の歌詞の中で自ら認めているように、それはあまりにも夢想的に過ぎるからだ。「永遠の平和」は、相手のあることでもある。例えば、イスラム教の狂信的テロリスト勢力の存在。彼らに「イマジン」を聴かせることに意味があるとは、到底思えない。だが、あえて言うならば、それは至上の〈共同幻想〉(吉本隆明)であり、彼はそれを音楽と言う形にして聴かせてくれた。それらは、徐々に、じわじわとではあるが、確実に僕たちを含む世代の魂に染みわたってゆき、例えば、僕たちに差別意識などはほとんどないといえる状況を現出している。・・・そして、そこから派生する一つの帰結として、既存の(特に、当時の英米の旧世代の)政治家たちへの、あまりにも過激な剥き出しの敵意(「真実が欲しい」など)。余談だが、この「真実が欲しい(ギミ・サム・トゥルース)」の、シンプルながら激しいアグレッシヴなサウンドは、僕の超お気に入りだ。ジョージ・ハリソンのノリノリのリードギターも絶品。上手下手はともかく、通しで歌えると思う。DAMカラオケにないらしいのが残念だ。・・・一時の彼が傾いたその政治的志向性、とりわけ共産主義的ユートピア夢想傾向は、今から思うとチャイルディッシュ(子供っぽい)であったが、これは日本の団塊の世代も同じこと。彼の世代固有(プロパー)の空気みたいなものであり、まあご愛嬌でしたと笑って看過すべきであろう。少なくとも言えることは、彼が、自由、とりわけ表現の自由の体現者であり、守護神(ジーニアス)であったということである。その天才ぶりは、例えば「主夫」業5年間のブランクの後に、彼が生涯愛してやまなかった正妻オノ・ヨーコに捧げられた、それにもかかわらず別人格の下半身が犯してしまった中国人美女(確かに、振るい付きたくなるほどいい女だったことは否めない)との浮気というあやまちの言い訳が、15分で書いたといわれる不朽の名曲「ウーマン」になってしまうほどであった。実人生とアートの関係の理想形ではないかと思われる。・・・ちなみにこの歌も、僕のカラオケの十八番(おはこ)である。これはど~でもいいけどね