きょう君が代記念日 君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
リオ五輪表彰式での「君が代」のテンポが、今まで聴いたことがないほどゆっくりしていて、金メダル選手たちからは息が続かず歌いづらいという声もあったが、あれはあれで非常に荘厳な感じがして、僕はすごく気に入っているよみ人知らずわが君は千代に八千代に さざれ石の巌いはほとなりて苔の生むすまで古今和歌集 343わが君は千代に八千代に悠久に細かい石が大岩となって緑の苔が生えるまで。君が代は千代に八千代に さざれ石の巌いはほとなりて苔の生むすまで和漢朗詠集 775○ 国歌 君が代 KIMIGAYO National Anthem of Japan○ 君が代 小澤征爾指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団 註 もとは、当時の相聞歌(恋歌)風の、一種の民謡のようなものを採録したという説もある。古今和歌集の「よみ人知らず」にはその種のものが多いので、一理あるといえる。 しかし、初の勅撰和歌集・古今和歌集の「賀歌(祝賀の歌)」の部の劈頭に、編者・紀貫之らによって配置され、延喜5年(905)4月、醍醐天皇に奏上された時点で「わが君」の意味は天皇と確定し、陛下の長寿を祝賀し祈念する歌となった。 その約1世紀後、当時広く読まれた詩歌の詞華集(アンソロジー)である藤原公任きんとう編の名著『和漢朗詠集』で初句が「君が代は」となり、陛下と皇室の弥栄いやさかを祈る趣意がさらに画然たるものとなった。第一級の碩学だった公任が古今集の本歌を知らないはずはなく、写本の過程での改変だったといわれる(当時まだ印刷術はなかった、念のため)。 この形で人口に膾炙し、薩摩琵琶の古謡「蓬莱山」の歌詞として長らく伝承されていたのを、明治3年(1870)、元・薩摩藩士だった大山巌など海軍首脳部高官らが取り上げ、曲折を経たのち宮内省雅楽寮に持ち込まれて、林広守(1831-1896)作曲の古式ゆかしい雅楽調の旋律を付け、宮中において明治13年(1880)11月3日初演。 この歌詞・楽譜は明治21年(1888)、国家的礼式を定めた「大日本礼式」の中で「Japanische Hymne(「日本国歌」ドイツ語)」として、海軍省が公式に各条約締結国(先進国)に配布、国際的に認知された。 この一連の過程に亘って、当時の文部省は全く関与しておらず、独自の国歌制定を模索していたが、明治20年頃から学習院など各学校独自の判断により、祝祭式典などで広く「君が代」が愛唱されるに至ったので、明治26年(1893)8月12日「文部省告示第三号」で、「祝日大祭日歌詞並びに楽譜」として官報で公布、政府として事実上公認した。このため、8月12日は君が代記念日とされている。 これらの経緯から見て「君が代」がわが国の国歌であることは自明であり、むしろそれゆえにこそであろうが、国内法上の明文規定がないことに長らく疑問の声が燻っていたが、批判の高まりを受けて、平成11年(1999)8月13日に、いわゆる「国旗国歌法」が制定され、この問題は法制度上も最終的に決着した。 京都・西芳寺(苔寺) ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。