うたのおけいこ 短歌の領分
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
全39件 (39件中 1-39件目)
1
森山直太朗太陽
2021年07月31日
コメント(0)
坂本野原目立ちたがりのギャーギャーうるさい解説者を批判する歌解説者うるさくわめき実況のアナウンサーを邪魔する不快内容のなき陳腐なる感情を生放送に乗せる浅薄わきまえのなき解説者日頃から周囲に嫌われてるなと思うそれぞれの放送局は注意せよ声をかぶせるのは最悪とテレビ局いつも威張っているくせにこんな基本も正せないのか察するに現場のDじゃだめなのか重役が出ろおまえ黙れとお笑いの芸人ならばしばかれるダウンタウンの浜田によって心理学作動して自己顕示欲、承認欲求強きこと見ゆ聞かれたら答えればいい理ことわりよ 主役は誰か間違っている控えめに喋り時折気の利いたこという相撲の解説を聴け上原の野球解説理想にていわば競技はこちらにもあり
Percy Faith& His OrchestraTheme From"A Summer Place"
2021年07月30日
坂本野原寝たきりの人が五輪に夢中にてひねもすうつつ夢うつつなり数学とトライアスロン神域に踏み込む女性金メダリストトライアスロンのすすめやってみた人のみぞ知る自虐的快感そして達成感は美食道楽グルマンや美酒にも勝る持久性スポーツの持つ秘密の愉楽速筋と遅筋、白身と赤身筋、ヒラメとマグロ、後者優勢単純な、単純なれど力持ち決める夢なり重量挙げはバーベルを落とし終わりし挑戦に女王は咲えみぬ花咲さくごとく心臓は高鳴り息は荒あららぎてオリンピックは体に悪し女子競技ばかり見ているわたくしはすけべえだなと苦笑いせり大橋の金の泳ぎをまたも見てプールに行きぬデジャヴのごとく
2021年07月29日
Daft PunkfeaturingPaul WilliamsTOUCH
2021年07月28日
大伴家持(おおとものやかもち)痩せたる人を咲わらへる歌石麻呂いはまろに吾われ物申まをす 夏痩せに良しといふものぞ鰻むなぎ取り食めせ万葉集 3853痩せた人を笑った歌(その痩せこけた姿を見るにつけ)石麻呂に友としてあえて僕は物を言う。夏痩せに良いというものだぞ。ウナギを取って召し上がれ。註石麻呂いはまろ:大伴家持の親友。石麻呂は字(あざな、通称・ニックネーム、おそらく幼名か)。成人名、吉田連老(よしだのむらじおゆ)。鰻(むなぎ):「うなぎ」の古語。語源は「胸黄」といわれる。天然ウナギを見ると、ビタミンA(カロテン)系の栄養素の色だろうか、確かに胸が黄色い。今日は土用丑の日。よく鰻料理店の壁などに、この歌を刷り込んだポスターが貼ってあったりする。こういった万葉集の「戯咲歌・戯笑歌(ぎしょうか)」の数々は、近世の「狂歌」の源流となり、江戸の知識人であった平賀源内は当然知っていただろう。土用の丑の日にウナギを食すという食習慣(恒例行事)を創始した源内の発想は、この辺りから生み出されたと思われ、幕末以降一気に定着した。なお、ウナギは古くは筒切りまたは丸刺しの串刺しで、焼いて食べたものと考えられる。その形が「蒲(がま、かば)の穂」に似ていることから、「蒲焼」の名が付いたという説が有力。「蒲焼」という単語の初出は、いわゆる現在言う形の蒲焼になった江戸中期を遥かにさかのぼる室町時代の1399年(応永6年)の「鈴鹿家記」という本であることも、この傍証となる。ちなみに「蒲鉾」も同様な語源で、原型は今でいう「竹輪」のようなものである。形だけで言えば「きりたんぽ」なども似ている。 ウナギ 蒲焼ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
大伴家持(おおとものやかもち)痩やす痩やすも生いけらばあらむを はたやはた鰻むなぎを取ると川に流るな万葉集 3854(夏痩せで)痩せても痩せても生きていればいいのだがはたまた、はたと一念発起してウナギを取ろうと川に流れて溺れ死ぬなよ。註上掲3853番からの連作(というより、ブラックユーモアの「オチ」といった方が当たっているかも知れない)。この二首でおどけて笑わせているのだが、その中にも堂々たる調べの格調が感じられるのは、さすがに和歌の父・大伴家持の面目躍如である。 ウナギウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
坂本野原わたつみの大荒波を乗りこなす小さき人のうつくしきかな立ち向かい はた諦めて波を待つ人と自然の高貴あてなる対話台風の逆白波さかしらなみをうっとりとテレビは映しつづけていたり海原は暗く画面に広ごりて来よ来よと呼ぶわが魂を源はカリフォルニアかさもなくばエデンの園のアダムとイヴか自由カノアとう名の若人わこうどの海にいて自由に波と戯れたりき大富豪アスリートらし いうなれば花形満 たとえが古いかサーフィンがこんなにちゃんとした競技だとはちっとも知りませんでした大昔ビーチボーイズ聴きしより感じてはいたこの爽やかさ海のない餃子の街に生きていて海への思い募るばかりだ正直な気持ちを言えば湘南に生まれし奴らうらやましきも暁あかときに歌詠みおれば小腹すきファミマゆ「つくね」買いて来しなり
The Beach BoysSurfin' USASurfin' USA1963
2021年07月27日
坂本野原正気とは思えぬ競技ストリート滑って転んですってんころりんスケボーが五輪種目になるとはねロックンロールの歴史のごとし十三歳じゅうさんの金メダリスト現れて椛もみじとう名でかわいいかわいい軽やかに目にもとまらぬ神業のスケートボード、ブレイクスルービッタビタ、ゴン攻めヤベー解説も楽しからずやNHKでこれでまた夜の巷に轟々とスケートボードの音響くらむ雄斗とは名もルックスもかっこよく恐れ入谷の鬼子母神かな子や孫がやる気だったら止めようねあんなのできる方がおかしい
2021年07月26日
菅内閣支持率最低更新は予想通りで 大丈夫です菅義偉首相が、日夜真面目に精一杯、誠心誠意頑張っていることは十分伝わるし認めるが、その力量・人気から見て、残念ながらこんなもんだろうなーとは目に見えていた。完全に想定内であり、そういう意味では大丈夫である。このこと自体はやむを得ないが、遠からずやって来る衆議院総選挙という大いくさを控え、暗雲が垂れ込めているのは否めないと言わざるを得ない。ただ、自民党内の、いくさがメシより好きな軍師たちの実力をなめてもいけない。ご先祖様はリアル武将の末裔も少なくない、孫氏の兵法などはイロハのイであろう。オリンピックはよしんば負けてもいいが、いくさは負ければ死ぬのである。いのち(政治生命・社会的生命)をかけた、真剣勝負のゲームである。さて、近代オリンピックが、もともと古代ギリシャのオリュンポス山麓で行われていた一民族が神々にささげる祝祭の形を換骨奪胎して、人類のひとつの理想を見事な発想で具現化した、この上なく素晴らしい祭典であることは言うを俟たない、万人の知るところである。始まってみると本当に素晴らしく、毎日最高の夢を見ているごとく楽しい。ただ、そうしたソクラテス・プラトン風の「哲人・賢人」的なノリもあって、今回このオリンピックの準備段階で、西洋思想・哲学の神髄である「イデア(理想)」論的な反駁しづらい正論の外圧が強烈にかかったという印象を持ったのは私だけではないだろう。そんな風に思っている、知的で穏健な、成熟した保守層の日本国民(筆者も含ませてもらう)は少なくないと思う。それらの普遍的なイシュー、マター(特に、完全なる平等、ありとあらゆる差別の撤廃など)が論理として正しいことは自明であり、真摯に反省し過ちは改めていかねばならないのは疑いないが、その一方で、それらの課題がなかなかそうそう一足飛びに実現(現実化)できない高い理念であることも我々は知っている。なるほど、欧米社会は男尊女卑の撲滅/男女平等についてはかなり実現しつつあるようにも見える(この点は敬服する)が、身分・階級制度は今なお健在であり、激しい貧富の差を淵源とする治安の悪さ・暴力の横行跋扈があり、キリスト教教義に基づいて同性愛には今なお不寛容である。黒人差別や外国人移民排斥は日々新たに目にすることろである。あなたがたはそんなに進歩しているんですか、五十歩百歩ではないですかと、マジのツッコミを入れたくなる。平たく言えば、オリンピック開催という国家国民的名誉を人質に取られ、反論しにくい足元を見られて、言いたい放題文句を言われた、責められた・攻められた、何人もの才能ある関係者・有力者の首も取られたみたいな被害者感覚もわれわれにはなきにしもあらずだ。日本人なんて、客観的にはどう考えてもアジアでは優等生の部類だろう。基本的には心優しき「善意」の国民である。子どものころからそういう教育を受けて、骨の髄まで沁みついている。例えば、卑劣な犯罪者だがオレオレ詐欺師どもを見よ。奴らもバカではない、それどころかむしろ鋭敏で悪賢い。その頭の良さを普通の仕事に使えばいいのにと、常套的に誰もが考える通りである。彼らはまさに日本人のそういった美点に真っ向訴えて、無慈悲に攻め込んでくる。人を笑わせ楽しませようと、サービス精神で調子に乗ってちょっと口が滑っちゃったとか、若気の至りで海外の事情に無知だったとか、今回の事態も含め、そんなことは枚挙にいとまがない。そういった、日本人なら即座に直感的に分かって作動する惻隠の情(武士の情け)も教育的配慮もヘチマもなかった。冷たい、攻撃的で対立的な国際関係の現実をまざまざと見せつけられただけだった。そこに雷同してくる獅子身中の虫のような日本国内勢力もあった。今後、日本社会や日本人(特に男性、しかし女性も)は、自らの認識や社会システムの至らない点について、考えを改めるべきは改め、改善すべき点は改善していくべきことは当然である。努力すべきである。ボーっと生きてんじゃねえよ、とチコちゃんの言う通りである。日本人の国民性は、謙虚であると思う。自らを無にして異なる意見に耳を傾け、反省することが得意である。批判された諸問題については追い追い虚心・真剣に考えて、可及的速やかに実効性のある措置を講じていくことになるだろう。しかし、例えばすでに「女性は子供を産む性であり、(それだけではないが)それゆえに男は女を深く尊重し敬愛している」というような古今東西万古不易の自明の理も、最近は言えなくなりつつある。生物学的にも当たり前の事実であるにも関わらずだ。人間は、生物ではない何者か(神のようなもの? 超人?)にならねばならないのか? そんなことは可能なのか? 尊敬し著書を愛読する生物学者・池田清彦氏の意見が聞きたい。それですらセクハラだと声高に言われかねない異様な言論状況は、これでいいのだろうか。バカボンのパパじゃないので、「これでいいのだ」とは、私は到底言えない。が、この台風のような日本攻撃は、主としてオリンピック・パラリンピックによってもたらされたものであって、その終了後にはとりあえず終わりを告げるのではないか。むしろ、開催した日本への感謝、あわよくば賞賛の声が国際的にも国内的にも高まりそうな気配すら感じられる。保守派政党・勢力はオリ・パラ終了後、全力で衆議院総選挙の準備に没頭することが可能となるだろう。黙ってサンドバッグよろしく重いパンチを打たれ続けた堪えがたい鬱憤も溜まっている。この大いくさに勝つためなら、もう何でもありだという空気になることも十分あり得ると思われる。菅首相の首のすげ替えという選択肢は、割と有力なものとなりつつあるといえるだろう。・・・私のような雑魚のボンクラな頭でも、これぐらいの筋道は読める。ましてや、もっと遥かに頭のいい畏敬する論客の皆さんは、健全な論調の大新聞紙上や、『正論』やその他保守系雑誌などで精緻で説得力のある論文を発表して、国民(とりわけ知的指導層)を正しくリードしていただきたいと切望している。なお、このブログサイトは(アクセス解析ツールをかけてみると)私自身がビビるほどの巨大マスメディア・一流大学、ひいては政府機関などの閲覧を日常的に受ける光栄に浴している。深謝するとともに、そうした組織に所属する皆さんは、筆者の拙い文章の意をお酌みとりいただき、日本の状況・立場・真意に寛容な思索・報道・言動をお願いしたい。次期総理、高市早苗でいいんじゃね? なにげに初の女性宰相
2021年07月25日
桑田佳祐明日晴れるかな
坂本野原長嶋が王がつなぎし聖なる火 大坂なおみいま点したり兵器ともなりうるドローン闇黒の夜空に地球描き浮かべり大橋の金の泳ぎを見届けてプールに行きぬ日曜の午後1000m泳ぎ山下達郎のラジオ聴きつつ帰路につきたりスポーツが祝祭感と結びつく 相撲の起源思い出したり亡き母もソフトボールをやっていた 女だてらと言われし頃に唯一の自慢話はこの俺もトライアスロンやっていたことフィクションの超大作の予告編むなしくも見ゆリアルさの差よ夏目三久オリンピックを花道に引退するんだなあとシュンです
坂本野原参加よりまず開催をすることに意義がありたりオリンピックは*クーベルタン男爵(近代オリンピック創始者)「オリンピックは、勝つことではなく参加することに意義がある」事前には反対論も強かりき 当てにならぬよ世論てものは鉄道の敷設も大政奉還も反対論を押し切りたりき始まってみれば平和と祝祭のやはり人類至高の祭典まつり勝ち負けは時の運よと戦国の武将も言えり よく頑張った
2021年07月24日
Dionne WarwickThat's WhatFriends Are For
2021年07月21日
小倉百人一首 九十五前大僧正慈円(さきのだいそうじょう・じえん)おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣そまにすみぞめの袖千載和歌集 1137身のほど知らずながら憂うれい多き世の民草に私は覆いかけるのだなあ。伝教大師が「わが立つ杣」と言いたもうたこの御山に住みはじめたばかりの私の墨染の法衣を。註天台宗の開祖、伝教大師・最澄が22歳の時、比叡山の根本中堂建立こんりゅうに際して覚悟を披瀝したという道歌どうか(思想・信条などを詠んだ歌)の「阿耨多羅あのくたら三藐三菩提さんみゃくさんぼじの仏たちわが立つ杣そまに冥加みやうがあらせたまへ」、および「あしひきの山べに今はすみぞめの衣の袖は干ひるときもなし(恋に破れ世を儚んで山あいの寺に住みはじめた私の法衣の袖は涙で乾く時もない)」(古今和歌集 844、よみ人知らず)の本歌取り。千載集に「法印(僧侶の階級)慈円」とあることなどから、作者が気宇壮大なこの歌を詠んだ時期は20代末から33歳以下の若さだったと特定される。作者はのちに天台座主ざす。おほけなく:古語形容詞「おほけなし」の連用形。おこがましく。差し出がましく。僭越ながら。身の程をわきまえず。つたなくも。畏れ多くも。もったいなくも。大胆にも。語源は「負ふ気(け)なし」(自負、自信がない)ともいわれるが未詳。作者は関白・藤原忠通の子という貴公子で、つとに才智を謳われたが、ここでは謙遜の辞を述べている。憂き世:憂きこと、憂い、憂鬱なことの多い世の中。生きるにつらい世間。後世、軽佻浮薄、根無し草といったニュアンスを加えて「浮世」とも表記するようになり現在に至る。杣そま:植林した木が生い茂る山。上記の最澄の歌とこの歌により、「わが立つ杣」「杣山そまやま」(あるいは単に「杣」)は天台宗総本山・比叡山延暦寺の別称となった。すみぞめ:「墨染すみぞめ」(僧衣のこと)と比叡山に「住み初ぞめ」を掛けている。墨染すみぞめの袖を覆ふ:僧侶として仏教によって衆生しゅじょうを導き済度さいど(救済)することを言った。
来生たかお 夢の途中
2021年07月20日
宇多田ヒカル真夏の通り雨
2021年07月17日
坂本野原わが友よ星飛雄馬よ大リーグボールの夢はリアルとなれり飛ぶ雄おすの馬ペガサスは星スターへと天翔あまがけてゆく平和の天使ピース・エンジェル泣きながら読みし少年マガジンよいま大谷を笑えみつつ目守まもるOHTANIはOHでもあってバントして He can do it allかれにできないことはないのだ盗塁は怪我が怖いよやめてよと松本人志が言った。同感大いなる谷翔けめぐるうつくしくこころ平らかなる天使ロス・アンジェル嫁さんの候補は星の数ならむ 特例措置でハーレムはどう?*このところ、私生活で忙しいのは相変わらずだが、作歌の面白さと情熱がちょっと蘇って来ているのを感じる。睡眠時間を削って詠んでいる。もう若くない体に悪いのは言うまでもない。
STUTS & 松たか子with 3exesPresence Remixfeat. T-Pablow, Daichi Yamamoto, NENE, BIM and KID FRESINO
2021年07月14日
藤井風きらり
Putih Abu-abuResah Jadi Luka
2021年07月13日
坂本野原それぞれの季節はなごり惜しけれど梅雨はさっさと過ぎ去ってよし知るかぎり梅雨の名歌はなかりけり昔の人も苦手なりしよ梅雨明けを待つこの気持ち成句では「一日千秋の思い」という*この記事のフォントは 、ペン字風の"さなフォンP" を使用してみました。ご覧の端末によっては、正確に表示されない場合があります。ご了承ください。
小倉百人一首 九十六入道前太政大臣(にゅうどう・さきのだいじょうだいじん)藤原(西園寺)公経(ふじわらの/さいおんじきんつね)花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり花を誘って散らす春の嵐で庭は雪が積もったように一面真っ白になっているが降りゆくものは 古ふりゆくものは花ではなく むろん雪でもなくてわが身なのだなあ。註花さそふ:花を誘って散らす。「花」は桜。ならで:~ではなくて。断定の助動詞「なり」の未然形「なら」に打消しの接続助詞「で」がついたもの。ふりゆく:(雪のような花びらが)「降りゆく」(降り積もってゆく)と、(わが身が)「古ふ(旧)りゆく」(古語動詞、老いる・古びる)を掛けている。「古ふる」は現代語「経る」の語源だが、ニュアンスは異なる。なりけり:~なのだなあ。同上の断定の「なり」の連体形に、詠嘆の助動詞「けり」がついたもので、ふと気づいてしみじみ感じ入ったというニュアンスを帯びる。当時の最高権力者である太政大臣にまで昇りつめて朝廷の実権を掌握し、京都・北山に壮麗な西園寺(現・鹿苑寺、通称「金閣寺」の前身)を建立し位人臣を極めた実力者が、比類ない栄耀栄華の遊宴の日々の中でふと感じた老いの哀しみ。絢爛たる庭園に降りそそぐ花吹雪のイメージから一転して白髪の老人の嘆きに着地させているが、和歌ではしばしば見られるモチーフであり、「ふる」の掛詞なども使い古された技巧で、発想は凡庸とも評される。が、この平凡さこそが、この国の政治の世界での成功に今も昔も必要とされる「協調性」を示唆しているのかもしれない。要するに、現代語でいえば、きわめて平凡な表現「歳は取りたくないものだ」と言っているだけという気もする。小倉百人一首は、撰者・藤原定家が私家版アンソロジー(詞華集)としてまとめたもので、今でいう何かの記念の小冊子みたいなものである。作者たち(当時の時点でもほとんど故人)それぞれの人柄が偲べれば良かったのかも知れない。歌集としての著名さに比べて、内容は必ずしも名歌揃いでないことは、古来よく知られている。なお、忠臣蔵でおなじみの浅野内匠頭長矩の有名な辞世歌「風さそふ花よりもなほわれはまた春の名残をいかにとやせん」(風をみずから誘って散る花よりもなお無残に散る私は、青春の心残りをいったいどうしたらいいのだろうか)はこの歌を踏まえた秀作である。
坂本野原AI戦争第三次世界大戦。AIはしずかにヒトを滅ぼしてゆく隠れても隠れてもなおドローンが君を殺しにほら飛んでくるカミカゼの名を持つ自爆ドローンが「非劇的」なる悲劇を築く虫けらのように機械は躊躇なく感情もなく人を殺せる徴兵はもう無用にて技術者とロボットだけが戦争をする人類の存在意義レゾン・デートル 蝋燭の炎のごとく虫の息なるロボットと核とサイバー攻撃をやめてほしいというだけ無駄かAIは人を救って滅ぼして神より神となりにけらしもサイエンス・フィクションが今サイエンス・ノンフィクションとなりつつあらむ戦いは自然淘汰を促して進化に寄与と生物学者戦いは強者を生かし遺伝子のなき最終の勝者は機械もともとは軍事技術のロケットもインターネットもGPSも殺人の研究意図を人問わば「そこに科学があるからだ」とかシステムは自己増殖し人間は息をひそめて干潟のしゞみランボーもゴルゴもいない戦争にまして釘崎野薔薇はいないあのころの未来に僕らいるのかなこんな未来のパワーバランス薔薇色の科学少年なりしかど予期してはいた こんな未来を軍縮は夢のまた夢 軍拡と威嚇と抑止 現実の夢戦争を知らないけれど聞いてきた僕らの世代 以後が危ない人間はそれほど馬鹿じゃあるまいと楽天的に笑いつつ死す*AI:人工知能、アーティフィシャル・インテリジェンス。
2021年07月12日
小倉百人一首 九十七藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩もしほの身もこがれつつ新勅撰和歌集 849 / 家集『拾遺しゅうい愚草』来てはくれない人をひたすら待つ松帆の浦の時の止まったような夕凪にじりじりと焼け焦げているのは藻塩でしょうか。いいえ わが身が恋い焦がれているのです。註小倉百人一首、新古今和歌集の撰者自らによる97首目。万葉集 935・笠金村(かさのかなむら)の長歌「名寸隅(なきすみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海人娘子(あまをとめ) ありとは聞けど 見にゆかむ 縁(よし)の無ければ ますらをの 情(こころ)は無しに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて 徘徊(たもとほ)り われはぞ恋ふる 船楫(ふなかぢ)を無み」(名寸隅の 船着き場から見える 淡路島の 松帆の浦に 朝凪には 玉藻を刈り 夕凪には 藻塩を焼いている 海女の乙女が いると聞いたが 逢いにゆく 手だてがないので 益荒男の 凛々しい心はなく 手弱女のように 思いが撓んで 行きつ戻りつ わたしは思い焦がれるばかり 船も漕ぐ櫓もないので。)の本歌取り。万葉集の本歌は若い男の側から詠っているが、こちらは女の立場になって詠んでいる。松帆の浦:淡路島北端の歌枕(名所)。現・兵庫県淡路市岩屋松帆浦。本州側の名寸隅と最も近い海岸。「(来ぬ人を)待つ」と「松」がかけてある。藻塩もしほ(もしお):古来の製塩法で、海藻を集めて簀(す)の上に積み、海水をかけたものを焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮詰めてとる塩。「藻塩もしほ焼く」は、その方法で塩を作ること。古くからこの地方の名産。「焼く」「藻塩」「焦がれ」はそれぞれ縁語。 淡路市(淡路島)岩屋地区ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2021年07月10日
Olivia Rodrigodeja vu
梅沢富美男南国の果実色してハンディファン7月8日放送『プレバト』より(兼題:扇風機)これはまた軽やかで華やかで爽やかな一句だ。さすがは自他ともに認める芸能界随一の俳句名人。本人の弁によれば、大好きな藤田ニコルちゃんとのデート(?)の最中に電器店で詠んだのだという。そのうきうきした気分さえも伝わる。出来栄えは、きわめて大げさに言えばであるが、俳聖・芭蕉が掲げた理念の一つ「かろみ」に近づき得たといえるのではないか。「果実色した」ではなく、少しずらした感じの「して」にした点も、微かな諧謔味と動きを醸し出していて、さり気なく的確な配慮。*ハンディファンは、近頃流行りの小型携帯扇風機のこと。
2021年07月08日
森高千里 雨失恋は、詩歌の泉であると古来いわれる。この美しい達成は、その一つの典型だ。人はなぜ、失恋のつらい体験を詩歌や小説などに「表現」し、あまつさえ「発表」したりするのだろうか?それはたぶん、表現行為には少なくとも「自己憐憫」「自己慰藉」「自己完結」「自己客観視」などの要素があり、精神の危機的状況を鎮静化しつつ、さらにそれを発表することによって「共感」や「評価」、あわよくば「賛嘆」などを伴う自己承認欲求(≒旧述語・自己顕示欲)の充足が得られ、それらによって自己愛(いわゆる「精神のバランス」)の回復が図れるからだろう。自己愛は、行き過ぎればさまざまな人格障害に至ることが今ではよく知られているが、動物としての「自己保存本能」に根ざしたきわめて深い根源的な情動であり、ある程度は絶対に必要なものである。その一方で「恋(恋愛、恋情)」は、子孫を残すという「種族保存本能」に根ざした、これまた強烈な衝動であり、人間も動物である以上、完全に抗えるものは一人もいない。まさに本能と本能の狭間で、精神の激しい疾風怒濤に弄ばれるのが、恋愛というものである。猫なら、目に見える(物理的な)傷口を自分でペロペロ舐めたりして治していく(自己治療してゆく)。心の傷は、あったとしてもごく小さいか、ふて寝でもして忘れてしまうのであろう。人の、目に見えない(精神的な)傷だとそう簡単にはいかない。厄介だ。失恋は、収拾に失敗すれば死や刃傷沙汰(事件)、重篤な精神病に至るほどの大きな心の痛手である。それを、リベンジ(意趣返し、復讐)の意図もちょっと含めたりして、場合によっては半ば楽しんで美しい作品に表現できるということは、すでに治癒していることの証なのかもしれないし、人間精神の精妙さと強靭さの現れでもある。人は社会的動物であり、言葉の動物であり、ホモ・サピエンス(考えるヒト属)だからだ。
The BeatlesRainそれまで、当時の英米のミュージックシーンにおいては、割と優等生の美青年アイドル(偶像)と捉えられていたビートルズが(すでにポピュラー音楽の天才的なメロディー・メイカーとして確乎たる評価を得ていたが)、傑作『トゥモロー・ネヴァー・ノウズ』などとともに、意識的に深い「芸術性」の方向に大きく舵を切った曲。いずれもジョン・レノン主導作品。1960年代当時、底の浅い刹那的な不良の楽しみと見られがちだったロックミュージック(ひいてはポピュラー音楽の一部)はこの後、古典音楽(クラシック)に匹敵、なんなら凌駕し得るアートであると、広く急速に認知されてゆく、その嚆矢の一つとなった。・・・この段階ではまだまだ粗削りだが。雨 気にしないよ晴 天気がいいねという、サビで繰り返し高らかに歌い上げられる歌詞は、一見当たり前すぎてコミックソングのようであると同時に、その後に展開されて大輪の花を咲かせる哲学的な表現の萌芽も宿しつつある。完璧なハーモニーが美しい。なおリンク先の動画では、最後の「テープ逆回し」(当時空前の新テクニックだった)の部分にまでジョンが「口パク」していて、笑える。本当に貴重な映像だ。
2021年07月07日
坂本野原やわらかいものがときどきかたくなり人のこころとからだのしくみ大相撲を見ながら、なんか突然出来た。上3句の着想は悪くない。けっこういいと思う。が、下2句はとりあえず仮につけてみただけで、散文的・論理的、分かりやすすぎて駄目。うまく着地できればなかなかの作品になり得るような気がするが、そこまでには相当な推敲を要する。とりあえず寝かせる。発酵熟成させる。そのうち降りてくる。和歌短歌の歴史は、文字に残され始めてからでも1300年。私ももう若くはないが、残りの寿命はまだまだある。いくらでも寝かせる。焦る必要は全くない。衆議院選挙が大事 都議選は負けてよかった振り子理論で大事の前の小事とはこのこと。政治の世界では古来よくあること、というか法則に近いといえるかも。これはたぶん、個人の人生にも演繹され得る。負けるが勝ち。
2021年07月05日
このところ働き詰めで、今日は個人的な休日(代休)。その聖なる日(ホリデイ)の昼下がり、テレビ東京で何気なく見始めた映画『バンテージ・ポイント』に釘付けとなった。そのシャープな組み立て、演出、編集(カッティング)、そして役者たちのリアルな演技にビックリ。手に汗握るとは、まさにこのことだ。ひとつの大事件を、複数の視点から繰り返し描くという凝った着想には、若き日の黒澤明の才気迸る傑作『羅生門』の影響があるか。時々刻々と過ぎてゆく時系列を強調した表現は、西部劇の名作『昼下がりの決闘』か。純然たる娯楽映画(サスペンス・アクション)であり、もちろん芸術作品ではないが、その表現の志がきわめて高く、野心的・意欲的であることは一瞥して明らかだ。すげえ。けれん味たっぷりでありながら、リアル感を能う限り追及している。そのため、多少小難しい構成になっているのは否めず(そこが面白いのだが)、やや見巧者の玄人向けとなっている。それゆえ、一般鑑賞者の評判は「めんどくさい、頭が混乱する」など、必ずしも高くない。これはやむを得ない。万人に受けることは出来ない。今や、世界トップの映画表現はここまで来てるのか。そう思わされた。ひとつの完璧なテキストというべきか。最初の死屍累々のモブ(集団)シーンは、またまた黒澤明『影武者』の引用か。『影武者』からはもう一つ分かりやすい重要な引用がある(ネタバレになるのであんまり書かないでおくが)。ラスト・シークエンスでの、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『終着駅』(迫りくる巨大な汽車/救急車の前を辛くも横切って愛する者を助ける場面)の引用を含め、映画オタクの監督による映画史(映画の大先輩たち)へのオマージュ(敬愛をこめた表現)多数と見受けられた。よく言われる通り、映画はやはり監督のものであり、その監督にどれだけの引き出しがあるかで決まる。ストーリーの大筋とは全く関係ないのだが、中盤からちらりほらりと登場してくる、天使のように純真無垢で無辜なる少女「アンナ」は、フェデリコ・フェリーニ監督の傑作『甘い生活(ラ・ドルチェ・ヴィータ)』、および北野武『HANA-BI』のラストシーン・ラストカットの美少女(実の娘・北野井子を起用)か。そして、そのアンナ(Anna)はアイスクリーム(ジェラート)を持って登場し、そのアイスクリームでちょっとしたひと悶着がある。これは、もしや『ローマの休日』のアン王女(Princess Anne)か。そんなこんなで、私の見るところ、私の気づいていないものも含めて、この作品はヴェネツィア映画祭大賞作品や滋味溢れるイタリア映画その他のオマージュ祭りなのであった(個人の感想です)。・・・映画って、本当に素晴らしいものですね(水野晴郎)。
坂本野原不条理の再確認にワクチンを打たれし痕をじっと見つめるコロナ禍のいずれ文学的意味は神の不在かそれとも黙示襤褸ずたぼろのオリムピックのあわれさよ民族主義ナショナリズムの行方を畏るもしもいま枝野首相であったならどうだったかと思考実験動物は本能的に蚊を恐れくすぐったいという感覚を持つ馬鹿舌かよくあることか 悪いけど言うほどうまいかスプリングヴァレー
コメント(2)
DÉ DÉ MOUSE& TANUKIfeat.HITOMITOIThe Night of Neon Light
ColdplayA Sky Full Of Stars
坂本野原蜘蛛の巣は雫を宿し梅雨寒の空の光を映しあるなり不眠いねがてに羊数うるのではなく蒸気機関車走らせているちょっとしたお返しならばこれでいい元気ハツラツファイト一発どれもいいカップタイプのチャルメラとカップスターとカップヌードル
德永英明夢を信じて
Tom MischDisco Yes
2021年07月03日
小倉百人一首 九十八従二位家隆(じゅにい いえたか、藤原家隆・ふじわらのいえたか)風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける新勅撰和歌集 192風がそよ吹いて楢の木の葉を揺らしている京の奈良の小川の夕暮れは(もう秋が来たかのように涼しくて)ただみそぎの儀だけがまだ夏であることの証なのだなあ。註なら:「楢」(の木)と「奈良」を掛けている。奈良の小川:京都・上賀茂神社の近くを流れる御手洗川みたらしがわの別称。上賀茂本殿の東に奈良社という摂社があり、そのほとりを流れているのでこう呼ばれた。みそぎ(禊):河原などで水をかぶって身を浄め、罪や穢けがれを洗い落とす宗教的な行事。ここでは「六月祓みなづきばらえ」神事の潔斎をいう。神道では、毎年旧暦の六月三十日(新暦の7月末~8月初め頃)に六月祓(夏越なごしの祓)として、その年の前半の罪や穢れを祓い落とす儀式が行われた。その後、神に奉げた神酒を参加者全員で戴く「直会なおらい」が行われた。大晦日の晦日祓みそかばらえと対応する重要な行事で、古く日本書紀にも記述が見られる。語源は、神聖の意味の「御み」と「濯そそぐ」であろう。しるし:証拠。「(みそぎ)ぞ・・・(なり)ける」は強調の係り結び。* 以下の2首を巧みに換骨奪胎した本歌取り(パスティーシュ)。作者が活躍したのは鎌倉時代初期で、奈良・万葉時代の素直で雄渾素朴な歌風はすでに遠く、このように繊細な彫琢と洗練を旨とする歌作りの時代となっていた。むろん、現代の目で見ればどちらがいい悪いということはないが、明治の巨人・正岡子規が古今集以降の歌風を激しく攻撃し、万葉調の復興を強く鼓吹したことから、近代歌壇ではその影響が強く支配した。いうなれば一種のルネサンス(リナッシメント、西欧中世の沈滞を打破した文芸復興)と相似の思考だったといえよう。ついでにいえば、明治維新は政治におけるルネサンスだったとも言い得るか。なお、本歌2首も、それぞれに秀歌である。八代女王やしろのおおきみ「みそぎするならの小川の河風にいのりぞわたる下に絶えじと(禊をしている奈良の小川の河風に吹かれながらひたすら祈っているのです、わたしたちの秘めた恋が決して絶えることなく密かに続きますようにと)」(新古今和歌集 1376)源頼綱みなもとのよりつな「夏山の楢の葉そよぐ夕ぐれは今年も秋の心地こそすれ(夏山の楢の葉がそよいでいる夕暮れは涼しくて、はや今年も秋が来たような気がするなあ)」(後拾遺和歌集) オーク(楢) Karl-Bekehrty-Straßeウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン