【粗筋】
大家の主人が二人、酒飲み談義の最中、供について来た久造が、大変な大酒飲みで、1度に5升は飲むという。飲めるか飲めないか賭をすることになったが、当の久造さん、飲めなければ自分の主人が相手を招待して御馳走すると聞いて、「ちょっくら待ってもらいてえ。おら、少しべえ考えるだよ」と席を外す。杯の用意をしたところへ戻って来て、飲み始めたが、1升入りの大杯で5杯を軽々と飲んでしまった。
「お前、さっき考えると行って出ていったが、何か飲めるまじないか何かあるんだろう。それを教えてくれよ」
「いや、なんでもねえだよ。おらァ5升とまとまった酒を飲んだことがねえから、表の酒屋へ行って、試しに5升飲んできただ」
【成立】
昭和の初期に今村信雄が創作したもの。快楽亭ブラックが明治24年に『百花園』に残した速記に「英国の落し噺」があるが、これは英国の兵隊がビールを飲むだけで、全く同じ噺。中国の笑話に原型があるという。
三笑亭可楽(俗に「玉井の」)が手を加えて現在の型を作り、春風亭柳橋が得意としていた。柳橋は1杯は一気飲み、2杯目は「味わうべえ」と言いながらほぼ一気飲み、3杯目は都々逸の文句などを口にしながら、4杯目は「1番好きなのは酒だ。2番目は金だ」「金を溜めてどうする」「全部飲む」と言い、旦那二人の会話、「最後の一杯が中々飲めないんですよ」とやっているうちに5杯目に掛かる。
柳家小さん(5)のもほぼ同様で、1杯目は味わうのも忘れて一気に飲む。2杯目は酒の歴史を語りながら、3杯目は都々逸など口にしながら酔いが回っていく。4杯目を飲む場面は主人二人の会話だけで通す。そして、5杯目は勝負だというので、一気に飲んでけりをつける。
【一言】
この噺は目が酔わなくッちゃ駄目なんで……目を酔わせる、ここンとこですよ、むずかしいのは。第一、久蔵が“考えさせてくれ”と言って出かけていく時と、帰ってきた時とでは違うんです。彼はもう五升も平らげて自信満々なんですが、それは言わないで口のあたりを拭いたりして、それとなくそおれを暗示するといった、こまかい描写が要求されます。(春風亭柳橋)
【蘊蓄】
1升入る杯は「武蔵野」と呼ばれる。武蔵野は広くて野が見尽くせない、「飲み尽くせない(野見尽くせない)」という洒落。
穴の開いた杯は、指で抑えて飲む。つがれた分だけは飲まなければならならない。漢文で「可(べし)」は必ず上に戻って読むので、下に置けないという洒落で「べく杯」と呼ばれる。独楽のように円錐になったものもある。
久蔵は合計1斗(18リットル)を飲んだことになるが、文化14(1817)年3月23日、柳橋「万八」で行われた飲み比べ。美濃屋儀兵衛(本所・51歳)は五升五合飲んで義太夫をうなった後、お茶を14杯飲んだ。天堀屋七兵衛文方の老婆(小石川・73歳)は七升五合飲んで、帰途、御茶ノ水の土手で寝込んだ。この時優勝したのは鯉屋利兵衛(芝口・30歳)で、一斗九升五合(35.2リットル)飲んだという。酒飲みを「万八」というのはこれかららしいが、文章に誇張もあり、本当に飲んだかどうかは定かではない。記録はみんな五合が付いているから、後五合飲めばいいのにと思うが、それが飲めないものかも知れない。
記録として信頼出来るのは昭和2(1927)年に埼玉県熊谷市で行われた酒合戦で、60歳の男性が一斗二升飲んで優勝している。
力士は大酒飲みという印象があるが、次の4つが私の選んだ大記録。
雷電為右衛門:享和2(1802)年、二斗。
柏戸宗五郎:大正7(1912)年、一斗五升。
朝潮太郎(初代):戦前、ビール37本と日本酒6升。
鏡里(立田川親方):昭和40年頃、ジョニ赤4本を息も継がずに一気飲み。