【粗筋】
間与島伊惣太という侍、絵が好きなのを同僚にとやかく言われて宮仕えをやめ、本職の絵描きになって菱川重信と名乗った。この妻がおきせという絶世の美女であった。宝歴2(1752)年正月2日に男の子・真与太郎が生まれ、その3月15日に夫婦で向島の梅若の縁日へ出掛けた。ここで花見などで和歌・俳句を書いた紙をその場で扇に仕立てる「扇折り」という商売をしている竹六という男と行き合って話をしたが、これを見ていた磯貝浪江という侍が竹六に声を掛け、絵を習いたいと思っていたがあの先生に紹介してくれるようにと申し出た。これから浪江は重信の家に出入りをするようになる。
その年の5月、重信は高田砂利場村の南蔵院という寺から、本堂の天井に龍を描いてくれという依頼。正介という爺やを連れ、泊まり掛けで描きに行く。浪江は毎日のように留守宅を訪れていたが、帰り際に腹痛を起こして泊めてもらい、深夜におきせを口説きに閨を襲う。目を覚ましたおきせに、刀に掛けてもと脅すが、おきせは聞き入れない。子供の真与太郎に刀を突きつけてついに言うことを聞かせたが、それからはずうずうしく通ってくる。この浪江は主人の重信とは正反対、若い時から道楽をして女を喜ばせる術を心得ているのか、おきせの方でも次第に浪江にひかれるようになってしまう。そうなると邪魔なのは師匠の重信。留守の間はよいが、間もなく絵が完成して戻ってくる。何とか戻らぬようにできないかと、もとより悪い奴でございますから、これより一計を案じます。
【成立】
三遊亭円朝の作。この作以前に伝説らしきものも見あたらないので、完全な創作。
【一言】
「乳房榎」が形成(編集刊行)されたの明治二十一年は、文学史でいえば、森鴎外がドイツ留学から帰国した年で、既に近代と考えるべき時代である。伝説の形成としては極めて新しい。
それが伝説として流布したのは、はなし自体の伝奇性もさることながら、他に次の二つの要素が考えられる。ひとつは、その誕生が「落語」という口承芸能によった、ということ。口承芸能は文字媒体の文芸と違って、享受者の創造をより逞しくさせるという特性があり、巷間への伝播力も強い。つまり、二次的な伝承効果がある、といっていいだろう。二つめは、はなしが芝居仕立てであったために演劇化が容易であったということ。現に明治三十年(一八九八)東京真砂座で初の演劇化が試みられて以来、しばしば上演が重ねられた。その都度脚色が施され、より広く巷間に流布したわけである。(白井雅彦)
【蘊蓄】
江戸名所図会(天保7(1836)年)には次のようにある。
松月院の門前にある所の一堆の塚上に榎木二三株あり。その下に小祠を営み、白山権現を勧請す。土人云ふ、この塚の樹木などに手を触れる事ある時は、必ず祟りありとて、尤も恐怖せり。按ずるに、上世高貴の人を葬したる荒陵ならん。
榎は神格化されるものが多いのは柳田国男が既に『孝子泉の伝説』(全集9)で指摘している。榎と乳の病いとの結びつきは見つからないが、銀杏にその力があるとして「乳銀杏」というものは多く存在する。