【粗筋】
上方者が江戸見物に出て、供の者に、
「茶店では茶代を出すのも色々面倒がある。わしが『おい六助行こう』と言ったら6文、八助と言ったら8文の茶代を置け」
と言いつける。毎日見物して回ったが、浅草の観音様で夕立にあい、供の者に宿まで傘を取ってくるように命じた。ところがすぐに雨が上がったので、茶店の主人に、
「今八助が傘を取りに行ったが、観音様へ来るように言って下され。茶代も八助から受け取るように」
と言って出て行った。主人が考えて、
「はて、この間は同じ供の者を六助と言っていたが……ははあ、名前が茶代になっているのだな」
と見抜き、供の者が来ると、
「旦那様は観音様へお出でになりました。茶代は百助からもらうというにということでございました」
「えっ、百助。困ったことに三十二助しかない」
【成立】
1776(安永5)年『鳥の町』の「茶代」。上方では「百助茶代」とも。
1802(享和2)年十返舎一九の『臍繰金』にある「茶代」は、同じように供の者の名前で茶代を置く。ある日雨になったので少し長く休もうと思うが、まさか二十助ではおかしいから、「十助、これまた十助」と呼ぶと、供の者が理解する。しかし、いつも小銭しか入れていないので、「旦那、わしは十五助と改名しとうございます」。一九は文化5(1808)年の『江戸前噺鰻』にも同じ噺を載せている。