【粗筋】
根岸に住む隠居、退屈で茶の湯を始めることにしたが、もともと茶道など知らないので、小僧の買ってきた青黄粉に椋の皮を入れて飲み、「腹を下すのも風流だなァ」などと悦に入っていた。
小僧と二人で飲んでいるだけでは詰まらないと、長屋に住む人まで呼んで飲ませるようになったが、みんな菓子目当てに集まり、茶の方は飲んだふりだけでお茶菓子泥棒が横行するようになる。さあ、菓子屋の付けが来て驚き、芋を燈し油でかためるというひどい菓子を発明し、勝手に「利休饅頭」と名付けて客に出すようになった。
ある日、客が茶を飲んでびっくり。あわてて饅頭を頬張ってまたまたびっくり。あまりのひどさに雪隠に立つふりをして窓から畑へ投げ捨てたのが、仕事をしている百姓の頬にピシャッ……
「(頬に付いたものを見て)ああ、また茶の湯か」
【成立】
安永5(1776)年『立春噺大集』巻一の「あてちがひ」が素人茶の湯の噺で、上方ではそのまま「あてひがい」という落語になっていると書かれているが未詳。
文化3(1808)年古今亭三鳥作『江戸嬉笑』の「茶菓子」が、最後の客の場面だけで落ちも同じ。その後は各笑話本に掲載されている。
頭らの茶席の情景には、講談「福島正則荒茶の湯」も取り入れられている。
「素人茶道」とも。上方には「裏から入りました」という落ちになる同じ題名の噺があったらしい。
青黄粉はウグイス餅などに用いる青みのある黄粉。椋の皮はニレ科の落葉高木で、木は天秤棒などに、葉は磨き剤に、皮は石鹸の代用として使われた。
【一言】
柳家小さん(4)を初めて聴いたのは、大正10年頃の春、薬師の宮松で、まだ蝶花楞馬楽でした。『長屋の花見』で、いきなり銭湯で上野の花の噂かな、ちょうど私、俳句をやりはじめた頃ですから、まずびっくりしました。それまで噺家の口にする俳句は月並の、むっとして帰れば門の柳かな、世の中は三日見ぬ間の桜かな、に決まってましたから。暮のやはり宮松で『茶の湯』をやりました。畑で農業をしている小さんのやるお百姓がどうしても亙友あたりの絵にそっくりにおもえました。それからというものはすっかり馬楽一本槍で、その出ている寄席へ通うようになりました。(龍岡晋)
【蘊蓄】
茶の湯に禅の精神が取り入れられたのは室町末期のこと。村田珠光から、武野紹鴎、千利休らに受け継がれた。