【粗筋】
佃祭の当日になると居ても立ってもいられず、焼き餅焼きの女房に「祭が白粉つけてまっているんでしょう」と嫌味を言われても気にせずに出掛けて行く。
祭に夢中になっていて、気が付くともう暮れ六つ。渡し舟の最終便はもう満員だが、これに乗り遅れると帰れないというので、次郎兵衛があわてていると、女が「あのう、もしもし」と袖を引っ張る。「急ぐから」「でもございましょうが」とやりとりをしている間に舟は出てしまう。どうしてくれると怒ると、女は3年前に身投げをしようとするところを次郎兵衛に助けられ、5両の金を恵んでもらったという。言われてみれば覚えがある。今は船頭の辰五郎と所帯を持っているので、いつでも舟は出せると聞いてやっと安心。さそわれるままに女の家に行って酒を飲み始めると、表が騒がしくなり、さっきの最終便が人を乗せ過ぎて沈み、船頭も助からなかったという。この女に止められなかったら、今頃は間違いなく死んでいたと、戻った辰五郎に厚く礼を述べる。辰五郎の方でも礼を述べて、今すぐに舟を出すわけにいかないから、ゆっくりしていってくれと言う。
さて、次郎兵衛の長屋では、次郎兵衛が沈んだ舟に乗っていたに違いないというので大騒ぎ。死骸はすぐには見つからないだろうから、通夜だけしてしまおうと、月番の与太郎に準備させる。夜が明ける頃に次郎兵衛が帰ってきたので、長屋ではまた大騒ぎ。坊さんが話を聞いて感心し、情けは人のためならず、めぐりめぐって自分を助けることになるのだと一席ぶつ。これを聞いた与太郎が、俺も誰かを助けようと、3両の金を工面して昼間から身投げを探して回る。永代橋で橋の上から手を合わせている女を見つけて、
「待ってくれ、3両やるから助かれッ」
「冗談じゃない。身投げじゃないやね」
「でも目に涙をためて、拝んでいたじゃねえか」
「歯が痛くてたまらないから、戸隠さまへ願をかけているんだ」
「だって、袂に石があらあ」
「納める梨だよ」
【成立】
1814((文化11)年根岸肥前守の『耳袋』巻6にある「隠徳危難を遁れし事」。これは中国明代の説話集『輟耕録(てっこうろく)』の「飛雲の渡し」を翻案したもの。船に乗らずに助かったというだけの話で、落ちの与太郎の一件は、文政6(1818)年『浮世床』三篇上巻に全く同じ噺が乗っている。
佃祭は住吉神社(現・中央区佃1丁目)の祭礼、旧暦6月29日。渡し船は明治39(1906)年まで存続した。戸隠神社は湯島天神社の境内末社で、ありの実(梨)を奉納すると歯痛が治るという俗信があった。説明がわずらわしいので、三遊亭金馬③あたりからは、次郎兵衛が帰って来たところで女房が、「何を言ってるんだい、その女と一晩何をしてたんだい」「おい、もう焼き餅を焼いている」というやり取りで終わらせることが多くなっている。通夜の部分だけが独立して「くやみ」として演じられている。
【一言】
毎年一回は夏場にやるはなしなんですが、『船徳』なんかより、よっぽどくたびれるはなしでねえ。サゲもまくらで説明しとかないと客に通じないし……。(古今亭志ん朝)
落ちについては、海賀偏屈の『落語の落(さげ)』1(東洋文庫)では、「全体落(さげ)が奮わぬ上に、梨というご叮嚀な蛇足まである」と非難しているが、生きていてよかった、めでたしめでたしでは噺としては物足りないということらしい。亭主の無事を知っても泣き続けるかみさんに声を掛けると、女の所にいて助かったと知って焼き餅を焼いているのだという落ちを聞いたことがある。
【蘊蓄】
佃祭の歴史は、異説もあるが、天正18(1590)年家康の関東移封に伴って、摂津国西成佃村の庄屋森孫右衛門が一族6名を引き連れて移り住んだのが始まりという。住吉神社は郷里の神様を分祠したものだが、海に向かって鳥居を構えている。
川を渡るのに困った家康に近所の漁民が船を出してやったということが『江戸名所図会』に書かれているが、定期便は江戸期には見られず、明治16(1883)年に1人5厘の料金で定期便が始まっている。当時の郵便料金と同じだった。大正15(1926)年に東京市の運営となって無料化され、昭和39(1964)年に佃大橋が開通して姿を消した。