落語「し」の27:四宿(ししゅく):新宿:その3
【粗筋】 新宿女郎が無心(まとまった金を欲しがること)。客が,「しょうがねえ、盗んでやろう」「まあ、捕まったらどうするのさ」「もしこの後来なければ、仕置になったと思ってくんねえ」【成立】 安永8(1779)年『御笑酒宴』の「新宿」。こんな怪し気な客も多かった。無論、客の方は二度と来ないというつもりなのかもしれない。【蘊蓄】 山手線の新宿は、内藤新宿。その後も新しい宿場に「新宿」という字を当てるが、「あらやど」「にいじゅく」などと読み替え、それが地名となっている場所もある。内藤新宿というのは内藤家の屋敷があったのだが、家康が馬を走らせた範囲をやるというので、四谷、大久保辺りまでをもらった。トルストイの「人にはどれだけの土地が必要か」という話と同じような感じだが、内藤家は馬が力尽きて倒れるまで走らせたんだって。新宿御苑が内藤家の屋敷の庭園の一部。 甲州街道の第一の宿場である。元禄10(1697)年に、浅草の名主・高松喜兵衛らが甲州街道に宿場を作ることを願い出、幕府は5600両の上納金を条件に許した。こうして内藤家の中屋敷の一部が幕府に返納されて、翌年から宿場とした。道路整備が悪く、天気が悪いと泥だらけになった。日本橋から二里(8キロ)少々である。 内藤家の家臣に新五左衛門という物がいて、この弟の大八が、飯盛り女ともめて、宿の男が大八を袋叩きにした。新五衛門は武家の恥として、弟を切腹させて大目付に報告、自分の知行も返納して、宿場の廃止を願い出た。事実としては怪しい部分が多いが、享保3(1718)年に宿場が廃止された。四宿はどこも岡場所と化していたが、ここだけが問題になったのは、やはり周辺に武家屋敷が多かったからであろう。風紀上問題があったというのが本当のようだ。内藤家の逸話も、武士が遊びに行くことを戒めたのかも知れない。内藤家家臣に新五左衛門、大八という名は見付からず、新五だとか新左衛門だとか、憶測が飛ぶのは、実際にはいない人物だったからではないか、と思われる。 明和元(1764)年、各宿屋に2人ずつという女の人数を、宿場で総計150人、品川のみ500人と変更した。これにより、内藤新宿も再開のめどが立ったようだ。実際に再開された時期ははっきりしない。