落語「し」の285:新聞記事(しんぶんきじ)
【粗筋】 隠居のところへ遊びに来た八五郎、「お前も知っている天麩羅屋の竹が泥棒に殺されたって新聞に出ているよ」 と言われてすっかり信用するが、「泥棒は6尺(2m)余りの大男で、匕首(あいくち)を付きつけられたがヒラリと体をかわした。取り押さえたと思ったら、小刀をのんでいて、これで殺されてしまった。犯人はすぐにアゲられたよ。入ったところが天麩羅屋だ」 と落とされた。からかわれただけなのだ。 真似をしようと出掛けたところが、当の天麩羅屋。本人の前で「天麩羅屋の竹が殺されたよ」とやってしまってからようやく気付いて逃げ出すが、これにこりずに別の友達の家へ。 話を始めたものの、泥棒が1尺6寸(約53㎝)の大男だったり、匕首が出ずに、「片口、間口、辛口、甘口……」と口づくしを始めたり、「竹さんが泥棒と枕を交わした」と言ってからおかしいと言われ、「二つ並んでいるもの」「布袋大黒」「その仲間」「七福神」「その一人」「恵比須様」「持っている物」「釣竿」「先についているもの」「釣糸」「その先」「釣針」「その先」「魚」「何という魚」「鯛」「そう、体をかわした」 と連想ゲームをやって思い出したり、ほうほうの態で最後までたどりつくが、「捕まったじゃない、捕らえられたじゃない、逮捕されたじゃない……」「上げられたんだろう、天麩羅屋だからな」「そんな……せっかくここまで来たのに、落ちを先に言っちゃあ行けねえ」「お前、その続きを知っているかい」「え……続きがあるのかい」「竹さんのかみさんがどううなったか知っているかてんだ」「どうなったんだ」「尼になったんだ。衣をつけたよ」【成立】 昔々亭桃太郎(1:百田芦生)が、上方の「阿弥陀ヶ池」を改作したもの。昭和17年頃の作。「阿弥陀ヶ池」の巧妙さはなくなるが、スッキリとした江戸風の噺になった。多くの人が演っているが、珍しいところでは柳亭痴楽(4)が演じた録音がある。三遊亭円楽(6)が本当に若い楽太郎時代に何度か聞いたが、毎回最新の話題などを入れて変えているのが面白かった。落ちはもちろん尼になって衣を身につけたのと、天麩羅に衣を付けることの洒落。 昔々亭桃太郎は柳家金語楼の実弟。昭和初期から戦後にかけて活躍、特に創作の方で実力を発揮し、兄の作品を多く手掛け,自作自演も多かった。【一言】 演っていて、大変リズミカルで、気持ちのいい落語です(中略)おうむと呼ばれる、くり返しの面白さで笑わせるはなしだけに、しこみ、つまり前半の部分の演じ方がむずかしいところなのです。(三遊亭円歌(3))【蘊蓄】 天麩羅(てんぷら)はポルトガル語で「調理する」という意味の「tempero」から出たといわれる。元和2(1616)年1月21日、徳川家康が駿府で鷹狩りをした際、京都の豪商・茶屋四郎次郎から鯛を揚げて韮(にら)をかけた「てんぷら」という料理を聞き、これを試食して胃腸をこわして死んだといわれている。これは小麦粉の衣がついていないので、現在の天麩羅とは違うもの。 天麩羅という言葉は「油(あぶら)」を一字一音で書いて音読したという説、宗教用語の「tempora(鳥や獣を食べずに魚や玉子を食べた日)」からとったという説がある。山東京山(京伝の弟子)の『蜘蛛の糸』にはこんな話も載っている。 天明の始め(1780年代)に山東京伝の家の近くに大阪から来た利助という男が住んだ。この者が、大阪には魚を揚げた「付け揚げ」というものがあるが、江戸には「ごま揚げ」しかないので、夜店の商売にしてはどうか、と京伝に相談した。 京伝は、利助が現在は「天竺浪人(流れの浪人であること)」で、「ふらり」と江戸へ来て始めるので「天ふら」、漢字は小麦粉の薄ものをかけることから「麩羅」にしろ、と冗談で言う。これを聞いた利助は喜んでその名を使うと言い、京伝に店の行灯(あんどん)にその文字を書かせたという。 面白いが、京伝よりも年上にあたる蜀山人(しょくさんじん)が若い頃に、「左に盃をあげ、右にてんぷらを杖つきて」と書いているので、京伝説は作り話。京伝は1個4文の栄螺(さざえ)の天麩羅を食べたというが、この頃は安い魚や貝を串に刺して食べた安物らしい。 野菜に衣をつけたものは「精進揚げ」というが、魚や貝を使わないことと同時に、「衣をつけた」という洒落らしい。「精進」はサンスクリット語「virya(ビリャ)」を訳したもので、「仏道修行に励む」ことで、一定期間の精進月には、肉や魚を避けた。 江戸時代の天ぷらは串で刺して1本8文くらいで売ったもの。天丼が出て来るのは明治25年ころからで、一杯3銭だから、大した物は乗っていなかったのかも知れない。