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ドイツでの独り言

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2005.10.17
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カテゴリ:カテゴリ未分類
ご期待に答えて(?)イギリスの歴史編第2弾である。
下の写真のハンサムな男性は誰でしょう?


征服王ウィリアム  


アメリカ人にとって一番印象深い年号ってなんだろう?
1492年(コロンブスのアメリカ大陸発見)か1776年(イギリスからの独立)ぐらいではないでしょうか?
日本人にとっては何だろう?
1868年か1945年かなあ?

1066年という年号はたいていのイギリス人が知っている特別な年号だそうだ。
それはイギリスが外人に侵略され、征服された屈辱の年である。


1065年、時の英国王Edward the Confessor(彼は信心深かったのでそう呼ばれた)は重病の床にあった。彼には後を継ぐべき息子がいなかった。

4人の候補者が名乗りを上げた。

William(後のWilliamI世、William the Conqueror)
は1027年にDuke of Normandy(フランス北部)の私生児として生まれた。
1035年、父親の死後Duke of Normandyを継ぎ、次々に政敵を制圧し、この頃までにはフランス国王Henry(アンリ1世)の支配から独立するまでに勢力をつけていた。
彼はEdward王の遠いいとこであった。

Harold of Wessex
AngloSaxonの中でもっとも力をもっていた。
1064年フランス沿岸(Coast Ponthieu)で彼の船が難破し、捕虜として捉えられる。
Williamが領主と交渉して彼を釈放する。2年後にWilliamとHaroldは共同でConan of
Brittanyと戦い勝利を収める。
その功労でWilliamはHaroldにKnightの称号を送る。
その見返りにHaroldはエドワード王の死後、Williamが英国王になるのをバックアップすると約束。
HaroldはWilliamの娘と結婚、Williamはイギリス王となった暁には領土の半分を彼に与えると約束。
WilliamとHaroldはFather-in-lawとSon-in-lawの関係である。

Edgar Etheling
Edward王の娘の息子、つまり彼の孫息子。

Harald Hardrada
ノルウェー国王OlafII世の腹違いの兄弟。

1065年誰が次の王になるべきか、Witanの会合が開かれた。
1066年1月にWitan会議は上記4人の候補者の中からHaroldを選んだ。
これが争いの発端である。

                    続く






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最終更新日  2005.10.18 06:09:52
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