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カテゴリ:想うこと
こんばんはっ深夜に失礼します。今日は、名古屋レポを立て続けに書いたので、このタイトルのことは明日にしようかと思ったのですが、やっぱり今日書きます。私が6歳の小学一年生の時でした。社宅にお腹の大きな野良猫がよく出入りしていて、動物が大好きな私はよく、お兄ちゃんや友達とお母さんに内緒で、台所の食料を持ち出しては、猫ちゃんたちにあげていました。でも、ある時、ふっと子ども心に思いついて、近所の近○さんという方の(一番上の兄の同級生がいるお家で、とっても良い方なのです)家に行くように、友達とその猫をフェンスの下からくぐらせて、近○さん家と送ってしまいました。そして、しばらくして子猫が近○さん家の軒下で生まれたと言う話を聞き、お母さんに、猫が欲しい~!!!とおねだりしました。(あ、決して狙って行ったわけではありません(^^;)そして、母と二人で近○さん家に行き、たくさんいる猫の中から、お目目の大きな女の子を頂いてきました。そのとき、近○さんのおばあちゃんが、「猫を人に上げるときはお金をあげるんだよ」と子猫を紙袋に入れて(紙の袋が安心するからと)300円を持たせてくれました。今、思えば、おばあちゃんは私にお小遣いをあげたくてそう言ってくれたんだと思います。そして、にゃー、にゃー鳴く子猫ちゃんをもらってきたのでした。家に帰ると3つ上のお兄ちゃんが、「その猫どうしたの!?」と訳を話してお母さんとおにいちゃんと私の3人でお昼寝をしながら、名前を考えていました。するとお母さんが、「8月15日だから、はじゅ~ご~、で、はつこにしよう!」と。6歳の夏、8月15日にもらってきた仔猫の名前は「はつこ」に決定しました。3人兄妹の中で私が一番小さかったから、はつこはすぐに家族構成を認識して、(私がいちばん下だということ)よくお母さんに叱られて泣いていると、はつこはニャーニャーと心配そうに鳴きながら、私の膝の上に前足を乗せて、頬を伝う涙を舐めてくれました。猫のざらざわした舌でよ~っく舐めてくれたので、私の頬は真っ赤でした。とってもうれしかったのを今でも鮮明に覚えています学校でいじめられて泣きながら家に帰った時や、辛い時も楽しい時も、いつも、はつこと一緒でした。はつこは決してキャットフードや鰹節を食べずに、にぼし、どじょういんげんのゆでたもの、ブロッリーのゆでたもの、キャベツのゆでたものをよく食べていました。老齢気になった時は、歯が弱くなっていたので煮干をゆでてやわらかくしたもの、あとはお刺身、野菜のゆでたものを食べていました。食生活のお陰か、はつこはスマートで、とても長生きしました。私が24歳になるまで一緒に暮らしてくれました。でも、やはり別れの時は来たのです。だんだん、食欲もなくなって、やせ細っていくはつこ。最後の時は看取れなかったのが残念です。はつこを亡くした時は本当に悲しくて哀しくてカナシくて、もう二度と猫は飼えないと家族全員が思っていました。(未だに思い出すと泣けてきます)。ある時、3つ上の兄が兄のお嫁さんが心の病で大変な時に、すこしでも奥さんの病気が良くなるようにともらってきた「茶太郎」という名の猫を一時期わが家で預かることになりました。その茶太郎がかわいいこと、かわいいこと!茶虎模様の茶色がベージュ色でお目目もぱっちりんこ、性格はおとなしくて優しいかわいい男の子でした。父も母も私も茶太郎に夢中でした。兄のお嫁さんの心の支えだった茶太郎、奥さんが病気で動けなくてもやっぱり側にいてほしかったようで、お返ししました。そうしたら、「巨人の星」の星一徹のようながんごな父が「茶太郎がいないと寂しいなぁ~」と泣くのです。2度目の定年退職をし、情緒不安定になっていたので兄に話して、仔猫を探してもらいました。生まれるのを待ってようやく、もらいに行ったとき、女の子が2匹いて、一匹は白、もう一匹は三毛、どうしようと考えて、仔猫ちゃんに聞いて見ました。「うちに来る?」と。そうしたら、三毛の仔猫が私のほうを見たのです。それで、三毛猫の女の子がわが家に来ることになりました。母猫や姉妹から引き離す時にお互いにニャーニャー鳴いてとっても心が痛くなりました名前の由来は・・・2001年の5月に「MEJA」のコンサートに行ったばかりで、ブロンドの髪を黒く染めた「MEJA」を思い出し、「あ、そうだ!めいやにしよう!」と決定最初は本当に小さくて手のひらに乗るサイズだったのが、今ではすっかり大きくなって、やんちゃになって 8月15日になったら、はつこのことを書こうと思っていました。幸せな家庭に人間の女の子として生まれ、元気に活躍していることを切に願います お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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