|
カテゴリ:カテゴリ未分類
今日のテーマは、黙読(もくどく)。
音読のはんたいで、声を出さずに読むこと。 音読が、家族の連帯をもたらすものだったのに対して、 黙読は、【孤独】であることが不可欠です。 自分に閉じこもり、自己の内面に向き合う読書。 では、「黙読」の誕生(一般化)の歴史をひもといてみましょう。 活版印刷の技術による、書物の広範な普及。 18世紀、ピューリタニズムのもとに、 個人的、内面的な読書の仕方が一般化されるになってはじめて、 『黙読(もくどく)』がおこなわれるようになった。 「黙読」の、成立と普及(一般化)は、 「読書」、という行為の内容をも変化させてゆきました。 自己の内面を通して本と向き合い、 作者ないしは作中人物と同化を遂(と)げる。 ごく近年まで、小説の読書は好ましいものとして受け入れられていなかったことをご存知の方は多いと思います。 それは、小説の内容の影響力以前に、 【小説とともに、 ひとりの世界に閉じこもることが、 家族全体の連帯感を疎外する行為を 意味したためではあるまいか。】 と推察されるのであります。 以上、参考文献 前田愛『近代読者の成立』、 鶴ケ谷真一『書を読んで羊を失う』(←オススメ本) おもしろいですね。 ほんとうについ最近まで、 読書つまり黙読が、「家族の連帯感を疎外する行為として、受け入れられていなかった」なんて。 金田一京助先生の、三省堂『新明解国語辞典』が好きなんですけど、そこには「黙読・・・読みの最も一般的な形式」とあります。 いまは一般的なことも、ちょっと前は「あたりまえ」じゃないんですよねえ。フシギな気分です。つくづく。 曽野綾子さんという大作家がいらっしゃいます。 『太郎物語』とか『いい人をやめると楽になる』とか、わたし曽野先生の小説もエッセイも大好きなんですけども、曽野綾子さんも「ちょっと以前には小説家なんてかたぎの仕事ではないといわれていた」と、どこかに書いていらっしゃいました。 時代変わればといっても、ほんとうについ最近ですもんね。 つくづく思う。 【常識って、変わるんだなあ。】 いまは、「読書ばなれを防ごう」とか、「いちにち何分、本を読もう週間」とか、ありますもんね。(←も、もう古いですか?) わたしが子供のころは、「マンガばっかり読んでいないで、活字の本を読みなさい」と学校の先生に言われたものですが、マンガのまわし読みも、あるいみクラスの友人同士の交流のいっかんだつたことを懐かしく思い出します。 いつのころも、禁止されるほどに、やりたくなるものですね。 それが、読書でもマンガでも、テレビでもパソコンでもいいんですけど、やっぱり想像力が高まるということと、持ち運びに簡易ということで、「読書」に軍配を挙げたいと思います。 さて、話をもとに戻します。 本日のポイント。 【明治時代は、音読が一般的であつた。 しかし、活版印刷技術の普及にともない、 黙読の成立(一般化)をみる。 黙読の成立によって、 書物は外への扉と同じく、 内面への扉もひらいたのであります。】 今日も、もくもくと本を読む。 べつに目的はない。ただ、気のおもむくままに。 読書か好きだから。 いつか また出会える 「この一冊!」 を探すために。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|