三余(さんよ)
魏(ぎ)の董偶(とうぐう)のことばに、 三余(さんよ) というのがある。 「学問をするには三余でじゅうぶん」という言葉。 三余、つまり、みっつの余(あま)った時間とは、 1 冬 歳の余り 2 夜 日の余り 3 雨 時の余り だそうだ。董偶は多読の人だったというから、業務の合間をぬって読書をしたに違いない。 社会人はなかなか読書をする暇がない。 仕事が忙しいからかもしれない。 リオンさんのような、学生の方の夏休みの多読のご報告を聞くと、とても懐かしく、またうれしく感じる。 学生時代、有り余るほどあった読書の時間。 三余どころではない。夏休み。新潮文庫の100冊。全部読んだらとんでもないことになる、というのは糸井重里のつくったキャッチコピーだった。懐かしい。リオンさん、夏休み、大いに楽しんでください。 さて、私も多読なのですが、昔の偉人にくらべたらたとえようもありません。 荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、本を読むのに机を用いず。ただ腹ばいになって読まれし、とあります。 あるひとが、荻生徂徠に「どうしてもわたしは読書がにがてで、机に向かって本を読むのが嫌なのですが。。。」と相談をしたそうです。 そしたら、荻生徂徠は、「机に向かうと読書がいやになるなら、机を用いないで読書すれば、だいじょうぶ」 とこたえたそうです。 むかしから、 「読書独楽是生涯」とかいいながら、 ひたすら本に向かい、 あるいは、いちにち一寸(三センチ)読もうとか、 あるいは、書斎の四方に机をならべてその中央で本を読むとか、 読書好きというか、読書すぎというか(ははは) 古人の読書論には、ただただ圧倒されるのであります。 ただ、共通していえるのは、どなたも、ただの読書好き、というのではなく、仕事もきっちりとやって、そのうえで読書の寸暇(すんか)つまり、「余」を惜しんでの読書であったということ。 なにかを成し遂げようとかという大欲もなく、ひたすら本を読んでいる私ですので、自戒を込めて今日の文章を書きました。 私の場合、本を読みつかれたら、違う本を読んで気分転換。 なんか他にいい方法ないものかと思います。 最近は読書づかれに、マンガ読んでます♪