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テーマ:海外生活(7773)
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サイトのタイトルにも記してあるが、日本を出てから14年もたつ。
もうすぐ人生の半分を日本以外の場所で過ごしたことになるんだなぁ、と思うとすごく不思議な気分になる。友人の中には「うらやましい」「すごいね」という言葉をすぐに発する人たちがいるが、それを聞くこちらの気持ちは複雑だ。日本で日本人として躾けられ教育を受けている私は、基本的な考えはすごく日本的。仕事をしながら現地の人と渡り合うとなると、その日本的な考えが命取りになることも多々あるので素の自分とは別人格を築きながら日々戦っているのが現実だからだ。 ドイツでのことを例に出すと、「他人を思いやる気持ち」は「自分の意見をしっかりもたない頭の悪い奴」と思われる理由になり得る。「遠慮」は「自分の意見をいえない馬鹿」となり、「同僚との協和」は「何を考えているか分からない不気味な奴」となる。日本人は「あの人はいいひとだから大事にしないと」と考えるが、ドイツ人は「あいつはヘナチョコだからどんどん利用してやれ」と考えるのだ。 これまで自分が良いと考えて行動してきていることをすべて否定されながら生活する、そのむなしさは経験者でなければわからないかもしれない。 おまけにドイツという国では、たとえ外国人といえども、すべてにおいて完璧なまでに整っているシステムを簡単に崩すわけにはいかない。長い間外国人を受け入れ続けているので合法的に住んでいればほぼドイツ人と同等に生活することができる。法律も細部までしっかりと定められているので、法的には外国人でも非常にわかりやすく、比較的住みやすいといえるだろう。 ただ、こうしたことの恩恵を受けるには、自分も確実に法律を守り、あらゆることへ高い意識を持つことを強いられるため、これは外国人にとっては簡単なことではない。法律をしっかりと知り、言葉を操ることは最低限必要なことで、たとえば有名なドイツの医療システムの高さの利点を自分も利用したいと思うなら、医師ととことん話し合えるだけの知識と努力、そして病気の時に外国語でそれを発揮できる精神力が必要となる。そしてこれを維持していくのは常に緊張を強いられ、ストレスにもなることを、羨ましがる人たちは想像もしていないのだろう。 たぶんドイツ人にとってはこの緊張の維持も日常的なもので、彼らにこんなことを言ったとしたら「なぜそんな当たり前のことについていまさらウダウダ言うのだ」、と呆れられてしまうかもしれない。しかし、あの笑顔のない、頭の固いドイツ人を見れば、実際は彼らも知らぬ間に努力を強いられているであろうことが容易に想像できるではないか。 私はドイツという国は好きだったが、ドイツ人はどうしても好きになれなかった。今思えばドイツという国を維持するためのドイツ人の苦労を、彼らと接することによって感じてしまっていたかもしれない。 10年以上生活していたドイツという国だが、離れてよかったと心から思う。 私にとっては、得ることはあっても人生を終える場所ではなかったということか‥。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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