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♪Nao☆ d(⌒o⌒)b♪さんからアドバイスを頂いて、ハンドルを変えました!
これからは、Lightbearさんに作ってもらった、mie★m(i^e^i)m★という顔で出歩きます♪ よろしくお願いします♪ アセンション神輿に対しての、賛否両論があることをチラチラと拝見しました。 仲間内、部外者、疎外感…などという言葉が盛り込まれていました。 そう感じる心持ちも、痛いほどとてもよくわかります。 私もなかなか人の輪には溶け込めず、垣根を高くして「私は私よ」と嘯くタイプの人間でした。 そうやって自分の弱さを隠して守っていた部分があったと思います。 そして仲間でワイワイ盛り上がっている人たちを横目で見て、どうせ自分たちだけが楽しかったらそれでイイっていうレベルの人たちでしょ、と思っていたクチです。 最初、この意図者の集まりにたどり着いたときは、距離を感じ遠巻きに眺めて、コメントをいれることも憚られ、躊躇し、まぁいいわ~私は読んでるだけで…と、それぞれのやり取りを眺めていただけでした。 もし、そのまま私は独立独歩でやっていくさと決心して、ブログをロムするだけにして自分のやり方を通す、と思ってやってきていたとしたら。 それまでと同じように、今回のこの神輿を仲間内での盛り上がりだと、バッサリ切って捨てていたかもしれません。 何がどこで違って来たのか。 それは他者への働きかけをしよう、と決心したからだと思います。 5月1日波乱の幕開けの日、私は初めてりんるーさんの掲示板にスレッドを立てました。 それが、「自分を開く」と決めたきっかけだったのかもしれません。 そこから自分がどうありたいのか、自分の立ち位置・方向性をしっかりと考えはじめました。 他者への働きかけ、それは即ち、自分への働きかけでもあると思います。 投げなければ返ってこない。 でも、それは決して議論の勧めではありません。 相手に対して、否定からの立場で投げかけろと推奨しているのではありません。 何を自分の軸にしたいのか。 それを考えたら、否定論から入るはずはありません。 今、この神輿に関わっている人たちを見ていると、投げかけたいものが何であるのかが一目瞭然だと思うのです。 愛と光 純粋な気持ち 喜び オープンマインド どのひとつをとっても、閉鎖的でひねくれた感じはありません。 ここで意図されているのは、仲間内での盛り上がりではなく、参加したいと思う人は誰でもいつでも参加でき、参加さえすれば、自らの光の増量も漏れなく付いてきますよ♪というものです。 他者も自分も良い方向に導きたい、そんな思いだけです。 喩えていうなら、大縄跳び、でしょうか。 「お入んなさい♪」「ありがとう♪」 っていう感じです。 縄を飛べる人数は限られてるので順番に回って、縄を回す人も順番に回って、はい!次はあなたの番ね♪という感じじゃないでしょうか。 飛べたら楽しいし、引っ掛けちゃっても「んじゃまた行くよぉ」で再開。 「私、飛べないからイイです、やめときます」って言ってたら入れない。 「ふん、どうせ飛んだって楽しいかどうかわからないじゃん」と斜に構えてたら、楽しさを知ることは出来ない。 「飛んでみたら?」と言われたら最初は躊躇するけど、「失敗したらそのときだ!えいやっ!」って気持ちを出すかどうかかなぁ…と。 そんな感じじゃないでしょうか? 確かに浮かれ調子になってグラウンディングを怠るということは、避けなければならないと思います。自分に対する戒めというか、調子っぱずれになることには注意を向けなくちゃいけないって思っています。 だけども、思考に偏って批評論・検証論にばかり目を向けていると、感情面が置き去りになります。 「ばかばかしい、排他的だ」という感情が沸き起こる原因となる気持ちは何か。 失敗する恐怖、拒否される恐怖、恥をかく恐怖、自分はまだまだじゃないかという不安 恐怖と不安は、愛と光の対極です。 自分自身が、愛と光で満たされることを望んでいるのなら、恐怖と不安は手放しましょう。 自分で作り出さなくてはいけないはずの、光と愛をもって他者と交流する機会が、今は目の前にあるのです。 そしてそこは愛と光に満たされているので、誰もあざ哂ったり批判したりすることに楽しみを見出している人は居ません。 だから、他者との交流が苦手だった私が、今回、このように神輿に乗せてもらうことができました。このような素晴らしいマジックのようなことが現実になるのです。 まずは、頭から入らず感情から動いてみる、ということもお勧めする理由がここにあります。 神との対話の神も本の中で、こう言ってました。 『今までと違った自分になりたければ、思考が動き出す前に行動を変えることだ』と。 難しく考えず、楽しそうだ!と思ったら「私も~♪」と言ってみることだと思います♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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