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カテゴリ:共生意識
今年も、地球時間であと24時間少々を残す状況となってまいりました。
皆さまご実家だったりご自宅だったりと思い思いに過ごされていることと思います。 今日の大阪は、急に冷え込みました! ところで。 女子と女子が、あーでもないこーでもないとこの年の瀬に繰り広げている。 さてどれだけの効果があるのかはわからないけれども。 ≪自分のものさしで人を計ることを放棄したらラクだよ。 反対に人のものさしを気にして行動することを止めたらラクだよ≫ そんなことをお話してみた。 私の話の基本は「自分軸」 聞いている子は、「ええ!相手のこと考えなくてええの!?なんか冷たいし自分勝手…」なんていう風に受け取ったりもするようだけど。 面倒見が良いことが人のためになっている、とか。 忠告や助言をしてあげることがその人にとってよいことだ、とか。 相手のやることを全部善意に受け取ってあげるのがよいことだ、とか。 そんなことする必要はない。 「そんなんしてたら自分が損するで」と言ったところで貶されてると受け取られたら…を心配したり。「こんなこと言ってるけど本当はそこまで思ってないはず」と相手の発言の裏の裏を勘ぐったり。 そういう心理作戦というか、対面した状態での探りあいなどが横行している。 まず目的が対立するためなら、対面すらする必要がない。 対面するのは、受容するときだけでいい。 全てを受け入れよう…という気持ちで対面すればいい。 その気にならないのならば、あえて対面する必要もない。 これだけ譲歩してやってるのだから、相手も…などと期待するのは無駄。 自分がやるだけのことをやった、と思えたらそれで完了です。 双方に、そのようなオハナシをしました。 私はオハナシしっぱなし。 その後、その二人がどうしようと、それはそれぞれの選択だからお任せ。 私の話を受け取ろうと受け流そうと、それさえも本人達の自由。 「相手がなんでそんなことをするのか、理由が知りたいんです」 その理由を知ったところで納得できなければ、「なんでそう考えるのか理由を知りたい」 その理由をまた聞いたところで、「どうしてそういう発想になるのかわからない」 その「理由を聞く」という行為は、自分の善悪のものさしに照らし合わせてみて適合するかどうかを判断したい、という気持ちに他ならない。 自分の許せる範囲内の答えなら、まぁわからんでもないわと言い。 自分の許容出来ない回答なら、そんな考え方ありえへん!と叫ぶ。 ≪へーあの人はそういうことをしたんだ≫で終わっていれば、理由を探す必要もない。 自分がありのままでいるのが幸せであるように。 相手もありのまま受け入れると自分自身もありのままで居れて幸せなのだ。 そんなことが上手く言葉に出来ず、ちょいもどかしい昨日・今日なのであった!(爆) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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