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カテゴリ:日記
本日はオコチャマたち&夫と母のとこへ。
自分の昔の経験で、祖父や祖母の入院している姿というのは印象的に残っているので、滅多とない機会だから会わせてやりたいと思っていた。 小さい頃に会ったきり、なかなか会わせてあげられていなかったので、大きくなったときに祖母の記憶がないというのも、お互いにとって寂しいものかな…と思うので。 今この時期に一緒に過ごしたという経験を、ちゃんと持てたらいいなぁ~と。 母にしてみれば、パジャマ姿の弱ったところなんて覚えていてほしくないかもしれないけど(笑) 手術痕がくっきりと見え、子どもらには衝撃映像(映像ちゃうからw)だったかもしれない。 でも、ニコニコと笑ってわいわい話す祖母を見て、何を感じ取ってくれたのか。 まぁ、私の母としての役割は、あるようでないようで、私は私のままで。 母にとっての子どもだったり、子どもらにとっての母であったり。 その場その場で私のままで存在する。 家族ってものも、いいもんだねぇ♪ 来たことがないという娘らを連れて、中華街に出向き。 夕食を食べ、一応ゆーめーな豚まんを食べさせてあげて(私は娘と半分コの皮だけw) いろいろと経験させてあげたいなぁ~という感じでした。 しかしほんま、娘ってかわいいわぁ♪ ニコって笑った顔がもうサイコー!(自画自賛w) 「離れてて淋しいんちゃう?」と思われるようだけど、そうでもない。 いつも一緒にいると、ほんの少しの笑顔の可愛らしさとか、当たり前で気付かないかも。 ちょっとの間に大人びた表情をするようになってることにも気付かないかも。 おかげさまで、私にはタイムラグがあるから気付くことが出来る。 そういう、一緒に居たら当たり前すぎて気付かないラッキィを得ることが出来る。 反対に、いつも一緒にいないから見過ごしてしまってるラッキィもあるだろう。 そう考えれば、プラスマイナスゼロなのだ。 どちらが良くてどちらが劣るというものでもない。 子どもらにとっても、いつも一緒にいると細かいことで注意をしてくるうるさいお母さん。 反対に離れてしまうという不安感がない。 離れていると、会うことが喜びとなり、いつも笑顔で受け入れてくれるお母さん。 反対にいつも一緒にいるという安心感はない。 ものの見方はそれぞれで、受け取り方もさまざま。 私に「子どもと離れていることは不幸だ、一緒にいるべきだ」と勧めてくる人は、その人の価値観というものさし(サングラス)で私たちを評価しているに過ぎない。 ●アレをすればコレが出来ず、コレをすればアレが出来ない ●コレをすることでアレは出来る、アレをすればコレは出来る この二つは、同じひとつの事象に対して感じる、個人の感想です。 ひとつの事象しかないのであれば、それに対して不足・不満を探して数えるより、満足・幸せを数えて満ち足りるほうが、私は好きです。 離れて住んでいれば、幸せか不幸か。 それは、その当人の心持ちひとつで、いかようにもなるということです。 心配だ、不幸だ、可哀想だ、と相手に言うということは、自分の持つネガティブ感情を相手にも分け与えたい(共感してほしい)という気持ちの表れだ、と本人が気付くべきでしょう。 自分が思う分にはいい、それも自己表現のひとつだから。 だけども、相手も同じ気持ちになってほしい、というのは押し付けってことになりますね。 幸せを感じているのを「そんなの間違ってる!」と否定したいってことだもん。 (↑今まで何度もこの経験をさせられたw) 「バイバ~イまたね~」と手を振って、歩いていく親子3人を小さくなるまで見送って。 私は私の家に帰る。 ほわほわと満たされた心で♪ ちなみに、ワシはすっごい幸せだぁ♪♪♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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