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カテゴリ:次元
なんでわからないのだろう?
どうしたらわかってもらえるのだろう? と、努力することはあるけど。 究極の話をしてしまっては、身も蓋もないのだろうけども。 「わかることさえも、本人次第」なんだよね、実のところ。 ぶっちゃけてしまえば、わかろうとわからなかろうと構わない。 それは、仕事の話でも真理の話でもなんでも一緒。 話して伝えることで、頭で理解することはできる。 でも、体感すること・会得することは、本人次第。 「あぁ!これか!」とポンと膝を打てるのは、本人だけ。 言葉で伝えることは、「言葉」でしかない。 感覚で伝えようとしても、他人に成り代わることができない。 もしも自分が良い香りだと思っていて「いい香りだね♪」と言ったところで、それと同じ感覚を感じているかどうかを比べることは出来ない。 「どういう風にいい香りなの?」と聞かれて、「甘くて少し香ばしくてそんでもってちょっと刺激臭が混じってて…」と言葉で説明しても、それを体感として感じることは出来ない。 瞑想中に胸の辺りがポワワ~ンと熱くなって光の渦に包み込まれて…と話したところで、同じ感覚を共有できるわけでもない。 会得も悟りも至福感も、自分ひとりのものなのだ。 だけども同じ感覚を味わった経験のある人同士なら、あぁソレはアレだな!と感じられるものがある。「ソレ」と「アレ」が同じものかどうかは、この際どうでもイイわけだ。 なぜならそれは自分ひとりの感覚だから。 他人の「ソレ」と自分の「アレ」を比べて、見劣りがするとかニセモノかもしれないとか、そういう心配をする必要さえない。 なぜならそれは自分ひとりの感覚だから。 ただ「ソレ」やら「アレ」やらを体感した人から見ると、また未経験の人のことはわかる。 それは以前、その同じ境地にいたことがあるから。 クロールが出来なくて、5m進んだら水飲んじゃってアップアップしてて「苦しい!」と言ってる人がいたとして、泳げる人がそれを見たら、「あぁ昔は自分もそうだった」って思う。 でもその当のアップアップしてる人は、らくらく泳げる感覚っていうのはまだ掴めない。 そして自分が泳げるようになるのは遥か遠い先の話のように思う。 でもいざ泳げるようになると、なぁんだこうすりゃイイのかって感覚でわかる。 そんで、左手の上げ方が誰かと違うから間違ってるのか?って気にしなくても、泳げていることには変わりない。 そんなもんさ。 ただ、言葉で伝えたくなるのは、その足をバタバタさせてる力加減をもう少し抜き気味にしたら?とか言うことで、「んん?そうなのか?」と意識を向けてチャレンジしてみるきっかけを作っているに過ぎない。 そう、きっかけ。体感するのは本人自身。本人しか経験できない。 「そんなこと言っても足に力入れてるほうがやりやすい」と思う人は入れ続けるでしょう。 「んじゃ一回力抜いてみようかな」と思う人はチャレンジするでしょう。 結局は、自分がやるかどうか、だけなんだよね。 全ては自分が決めている。 今日の過ごし方も、幸せの感じ方も、笑うか笑わないかも、体感にチャレンジするかどうかも、このブログを読むかどうかも…(笑) ---------------ココからは仕事の話です---------------------(爆) 「はい、それは知ってます」 私はそういう言い訳はキライだ。 知ってるのにどうしてやらないの? そう聞くと「やらない理由」をあれこれ考え出してくる。 私はそんな「理由」を聞きたいわけじゃない。 「それは知ってる」のに「やらない」のは。 やらないことを選択している、だけじゃないか。 もしくは、やることを忘れていただけじゃないか。 やりたくないならやらなくてもいい、忘れていたのなら思い出せ。 コトはシンプル、ちょー簡単。 そして、やりたくないのなら・・・うちの職場にいるのは無意味だな。けけけw お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.05.02 01:01:41
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