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カテゴリ:統合意識
私が2つ前の記事で、呼び習わされた名前を言うと遠い存在に感じるので…と書いた理由。
それはね。 神さまを指して固有の名詞で呼んでしまうと、それまでの固定観念や自分の中のイメージや先入観・知識などが邪魔をして、自分の直感を遮ってしまうことがあるんだろうな、と感じるからなのです。 そうすると、寸前まで私のカラダを包んでくれているように感じていた温もりが、遠いところに行っちゃって、そう、例えば天国とか言う場所にね。 頭上の遥か上空から、小さな小さな私たちを見守っている偉大な存在になってしまう。 そうすると、相対的に自分は小さく小さく感じられて、本来の大きさを把握できなくなっちゃう。 でも、おとーちゃん・おかーちゃんと呼べば、ちょー身近でそれこそ親身になって子どもを見守ってくれている温かい柔らかい優しい存在だと感じられる。 単なる言葉の綾なのかもしれないけれども、それがなんだかピッタリに思えたのでした。 私の感じた、神さまという存在は、そういう温もりのある存在なのでした。 そして、もうひとつ。 これは井沢元彦氏からの受け売りなんだけど(笑) 古来の書物に秘められた、ある法則。 それは、時の権力者の編纂によって意図を持って作られているだろう、ということ。 どういう意図かといえば、それは明白に、「自分の正当性を主張する」というもの。 侵略戦争を吹っ掛けた側が勝利したとしたら、蛮族を排し、神の使いが勝利したと言い。 吹っ掛けられた側が勝利したとしたら、蛮族を追い払い、神風によって勝利したと言い。 そこに神がかりであることを主張すると、非常に自分たちの立場を優位にしやすい。 神の意図である、と。 古来の神話には、事実に基づく内容も多々あるだろうと思う。 昔の有数のチャネラーがゲットした情報だっただろうから。 でも、それを上手い具合に自分の権力維持に用いて、庶民に頒布したであろうことは、今の政治状況やマスコミ体制、他国の報道ぶりを見ても、わかりやすぅぅって感じですよね。 こんなに情報網が発達した現代でさえ、世論操作や民衆サブリミナルなんかが行われているのだから、昔の情報過少の時期の書物だとすると…。 自分にエエように書きますやんか。 そんなんしたことない?上司への報告書とかに、ちょちょいと上乗せしちゃったり。 自分のミスが発覚しないように操作しちゃったり(笑) いや、私はないけどっっっ!(←力みすぎw) なので、昔の日本書紀だとか古事記だとかも、信憑性のほどは怪しいと思うのです。 縄文人を僻地に追いやり、拡大していった弥生人の子孫たちが、神話として作り上げていたとしたら。 天照大神にしても卑弥呼説があるけれども、書物の字面だけを見ていては見落とすもの、目くらましなものが、あるんじゃないかなぁ?と思うわけです。 天皇家を神様として祀り上げることで、誰がその利益を受け取るのか。 天皇家であり、その周りの豪族であり権力者であり、その後には担ぎ上げている幕府であり…。 もちろん、天皇家も神様の子孫です。 そして同じく私たちも、神様の子孫なのです。 いや子孫というよりも、神様から派遣されている社員みたいなもんです。 代々受け継いだというよりも、直属で配置されているのだと思います。 なので古来の神様のイメージを辿ると、自分が今、神を感じている感覚を捻じ曲げてしまう、直感・インスピレーションを信じず、知識に偏ってしまう恐れがあるなぁと感じていたわけです。 八百万の神にはそれぞれの個性があり、いろいろなことを司り、采配し、ずっと見守り続けてくれていると思います。有り難いことには違いない。 でもそれは、私たちが個性豊かに存在しているのと、結局は同義なのだと思います。 決して軽んじろと言ってるわけじゃないことは、お分かりいただけますよね(笑) ただ、自分の位置を必要以上に貶めることはないよ~と。 神様が遥か上の上の上にいて、自分は下の下の下に這いつくばってるわけじゃない。 一緒にいるの♪ ココに、一緒にずっと一緒にいるってこと。 すぐそばに。 あるいは、一体として。 私の中にも神様はいる。あなたの中にも神様がいる。 だからこそ、八百万の神様なのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.05.05 02:57:55
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