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なんか無性にデコりたくなって携帯をデコってみたんだけど、あまりにも無計画に並べてしまったので、やっぱり外したくなってゴキゴキしてみたら、残ったのは傷ついた携帯電話だけ…という悲惨な状況に見舞われているmieですこんばんわ。
てか前置き長いし(笑) さて今から再度デコ挑戦するわけですが。 それはさておき。 や♪明日はオーガスタキャンプなの♪楽しみぃぃ♪ も、とりあえずさておき。 なんだかここのところ、いろんなものが見えてきて楽しいというか。 以前は目の前に膜が張られたような、あともう少しでそれが見えそうなのに、もどかしい…というような気持ちを持っていたのだけど、あれ?あれれ?という感じで膜が取り払われて行っているような感覚なのです。 わかりにくいなぁ(笑) 感覚的なものなので、なんとも言葉にしにくいわけですが。 たとえば4次元霊。 いると思う人にはいる。いないと思う人にはいない。 いないと思う人にいるんだってば!っていくら説明しても、いないものはいない。 たとえば天使しかり神様しかり。 いると感じたければ感じればいいし、そんなのいないって思いたければいないでいい。 たとえばソウルメイト、たとえば高次元の存在、たとえば…いろいろ別個の存在はいますね。 これらすべて、いると思えばいるし、いないと思えばいないんだよね。 いるんですよ。それぞれの存在は確かに。 だけどもいないんですよ。本当は。 いわゆるひとつのパラドックスですよね。逆説的な話になっちゃう。 だから…というのか、それがいるから救われている、それがいるから困ったことになった、と感じているのは他ならぬ自分。 最終的には自分の自我が、いるかいないか、どっちを選ぶのか?ってなっちゃう…。 存在自体は、いるし、いないし、どちらもあり。 個である幻影を楽しむために、個として存在しているのだから、いてもいなくてもいい。 だからいるの!いないの!なんて判断する必要すらもなく、決定する必要などもっとないと思うのです。 いてもいいしいなくてもいい。霊も天使も龍も悪魔も神様も自分自身さえも何もかも。 ただ自分が今ここで自分として存在していると感じているのは、紛れもなく自分にとっての事実なのであって、そしてそれはやっぱりあくまでも「自分にとっての事実」なわけで。 天使ちゃんたちとふわふわしてるのが楽しいなぁ♪と感じていれば、それを構築すればいいし、霊と闘いたいと思えばそれを構築すればいい。 望んだものを目の前に展開させることが出来るんだろうね。 それが、今、人間存在としてここにいる楽しみのひとつなんだと思う。 それが自我のなせる技であるのならば、その自我を持っていることが有り難く思える。 自我を持たない経験…というのは、おそらく何度もしてきているのだと感じる。 全体がひとつ…という感覚。 そんな中で今回「自分」という個別存在を感じていられるのであれば、それを楽しみたいな~って思っちゃう。 自我は排斥すべきものでもなくて、そこに自我があるからこそ…と思うわけ。 今までは自我=自分だったから、それ以外のものが見えなかっただけ。 でも自分を自我と同一視しなくなると、初めて「自我」というものが見える。 そしてやっと自我があるからこその世界というものが見える。 で、今度はその自我を道具として自分の好みの世界(語弊あり?)を楽しむことも出来るようになるんだなぁ~という感じ。それに自我は脇に置いといて、ただただ至福感に漂いたければそれも出来る。 そんで、今展開させてる物語がなんか違う…と思えば自我という道具の使い方を変えれば、違う物語が展開していく。 ただまぁ今まで何度も展開してきた物語たちは、もう飽き飽きしているので敢えてリピートしたいとは思わないけどね。 苦しい物語、腹立たしい物語、悲しい物語、悔しい物語…(笑) そんなわけで。 どういうわけかまたニューアースを読もうかなぁと持ち歩いているのですが、あまりページを開く気持ちになりません(笑) 再読してみたくなったんだけど、もう読まなくてもよいのかもね♪ …ってか…カバン重いだけやん…( ̄∀ ̄;) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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