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元々はマザーテレサの言葉だそうですね。
「愛の反対は憎しみではなく無関心、憎む対象にすらならない無関心なのです」 でも本来マザーの伝えたかったこととは関係なくこの言葉は独り歩きをしていて、いろんな場面で使われる慣用句になってますね(笑) ふと思っちゃいました。 愛の反対など存在しないのだ、と。 色んなあらゆることが、愛の中のひとつであって、それ以外になりようがない。 無関心であることさえも別の視点から見ると、無関心であった自分に気付いたときには… マザーはその気付きを多くの人にプレゼントするために、その言葉を発したのでしょう。 その時代でのテーゼとして、必要なものだったのでしょう。 しかし現代の慣用句として、愛の反対は…と言った場合。 多くの時点でその中心軸は自分になく他の対象にある。 言い換えれば「反応」を表現しているに過ぎない。 無知・無関心は罪だともいわれる。 何に対しての罪か。 それは決して周りに対して行ったことについての罪、ではない。 それは自分に対して、ですよね。 自分の根本について、知らなさ過ぎる、無視し過ぎる…という意味での。 その意味での罪だというのなら、そういう言い方もあるかもしれない。 罪という言葉が適切かどうかはわかんないけど。 でも、愛の反対は無関心だからそれは罪なのよ、と繋がると意味合いが違ってくる。 他者への働きかけについて善悪を規定しようとしてしまうから。 他者を愛していると表現することが素晴らしく、その反対はよろしくないという基準。 「だから関心を持ちなさい」と。 また愛の反対が存在するということは、それは無限な愛ではなく条件のついた愛となる。 関心を持つことが愛となってくる。関心を持たなければ愛がないとなってくる。 「ちゃんとイイコにしてれば愛してあげますよ」と親が子どもに条件付愛をチラつかせるのと似ている。 だけどもどこかで親は感じ取っている。どんなことをしていても子どもを愛しているって。 たとえ親の言うことを聞かなくっても、もうこんこんと沸いてくる愛する気持ち。 (世の中の親業をしている人全員が…とは申しません。該当されない方もいるとは思います) 無関心である者が無関心を選択し続けることを赦し受け入れる。 その者の存在自体を愛する気持ち、それは他者との関係性上にあるものではなく、ただ自分の内側に存在しているもの。 自分の中に愛があることを発見させてくれる役割を、その無関心者が担っているのかもしれない。 どんな表現も愛の形の違った表現、あるいは愛に気付くための表現のひとつ、なのではないのか。 どこにその愛があるのか。 それは、自分の中なのだ。 いつもいつも、自分の中なのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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