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私を包む世界は、私の精神状態などにはお構いなく滞りなく進んでおります。
その流れに従うも逆らうも、自分の意識次第。 実は全て滞りなどないのです。 それに目を向けるか背けるか。 うつうつとして視線を下げていたときには、それに気付かず過ごしていたとしても。 怒りに震えてあらぬ方を睨みつけていたとしても。 えへえへ♪と喜びに満ちていたとしても。 周りの世界は滞りなくそこに存在してるんですね。 その中で、自分はどうあるのか。 焦点はそこっすよ。 たまにはブレてみるもんです。 そしたら中心ってどこなのかが、はっきり思い出せる(爆) しばらく前からブレ始めていて渦になって噴出したんだけども、その間にもいろいろと喜び事は着々と進んでいて。 その喜びを感じるよりも、自我の叫びに翻弄されていたわけなんだけども。 長い間かかって、やっとスタッフを揃えることが出来ていて。 一人一人が面白い個性を持った、それぞれが可愛い人たちで。 今のところ、誰一人として扱いにくいとか教えづらいなどという気持ちになる人はおらず。 とうとうこの時が来たのか(´▽`*)という感じです。 旅行のお土産を渡したいと兼ねてから私の出勤を待っていてくれたお客さんがいて、昨日やっとご来店になり、私の顔を見るなり満面の笑顔で近付いてこられた。 「手紙も入ってるから(*^^*)」と渡してくださった。 「いつもありがとう」と書かれていた。 ほんとにこういう気持ちって嬉しいねぇ♪ そしてこの職場の進退について、私はずっと考えていた。 このまま誰かの思いのままに振り回されるのはごめんだ。 こんなに混沌としたところに長居は無用だ。 もっと自分を表現しやすい適した職場があるはずだ。 うん、でもね。 もしここが私に適さない場所であるなら、もうすぐいつものように強制指導が入ると思う。 居たくても居れない状況が発生したりして、気付いたら、あら前より素敵♪ってことになっていると思う。 それは私の思考的判断に関わらず、必要であれば必要なものがやってくる。 もしここに留まっていたらこんな発見があるはずだよ、ってことならまだここにいるだろう。 振り回されるのはごめんだ・もっと良いところがあるはずだ、などという悪あがき的な自我主導型思考を手放すと、必要であれば勝手に向こうからやってくるはずだ。 現に、こういう気付きも今だからこそ…なんだから。 今回の(自分の中での)自我対自我の葛藤で、自我はひとつだけじゃないってことも学んだ。 こないだのコメントでの問いかけの 「どっちが自我なんだろう? 出て行きたいと叫んでいるほうか、これをやり遂げないと私は動けないと言っている方か」 私は後者の方だ、と答えた。 でも違和感があった。 なぜなら、それは両方とも自我の叫びだったからじゃないかな。 どちらも自我だったので、どちらを選んでも違和感を感じたのかもしれない。 両方とも「現状を変えなければならない」という立場。 その良い悪いなどの一切の判断をなくして、現状をありのままに受け入れて眺めてみる。 出て行こうが留まろうが、いずれはどちらかの状況に身を置いてるだろう。 今はこの場所にいる。それだけを受け入れてみる。 そしたら、いつものように楽しいな♪嬉しいな♪の発見が続々(笑) アリとキリギリスという寓話がありますね。 昔は、アリは勤勉でえらい、いつも遊んでたキリギリスはバカだ、という風に教わった。 子ども心に、それって変だなぁ、なんか違うなぁ…と感じていた。 楽しみを一切放棄しろって言うの?それなら私はキリギリスでいいや~♪と思ってたらしい(笑) そしてキリギリスの生き方をしてきたように感じている。 先のためにと今の楽しみを我慢して貯蓄に励むことよりも。 今あるお金で今を充実させたいと思っていた(いや生活破綻させるほどじゃないよw) がんばって苦労して時間を惜しんで好きじゃない暗記問題を記憶するよりも。 楽しいと思える学科で成績を出すだけでいいじゃないか…と思っていた。 苦手なものを苦行のようにムリやり克服するよりも。 好きだと思えることに打ち込むほうが楽しいよね♪と思っていた。 だから昔の寓話みたいに、どこかで野垂れ死ぬ運命が待っているのなら自分が選んだことだからしゃーないね♪みたいにね…。 だからある部分で、自分のことをわがまま気ままだと責める気持ちを失くせないでもいた。 でも今は、キリギリス万歳!(爆) 苦労を重ねれば充実した未来が待っていると思っているのは空想上のことなんだ。 今を充実させないでいて、どうしてその先に充実した未来が来ると誰が保証できようか。 アリが幸せかどうか、キリギリスが不幸かどうか、それはその本人(本虫?)しかわからない。 アリさんが「蓄えがいっぱいある♪」ということに心底喜びを見出すならそれもいい。 もしかしたら働きすぎて過労で倒れて、たくさんの蓄えの中で肉体から離れるかもしれない。 キリギリスさんが「あの時遊びすぎたから…」と後悔するかどうかは当人次第。 もしかしたら多くの喜びを重ねていったおかげで、充実した心持ちで肉体を離れるかもしれない。 それらは全て、その時々にどう感じているか・どう視ているかの違い。 どんな境遇でも、どんな現実でも、どういう風に捉えるかだけの違い。 だってどんな気持ちでいたって、自分を包む世界はいつもと同じように滞りなく進んでいるんだもん。 凹んでみてよかったなぁ♪ あぁ、何ごともありがたい♪ありがたい♪(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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