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カテゴリ:本
昨日は、大学側の人のことを書きました。
今日は、学生側で、藤原伊織さんとともに立て籠もって おられたと思われる方の記事を偶然。。。拾いました。 朝日新聞2008.12.25 (夕) 哲学者 長谷川宏氏 の記事です。 --------------------------------------- 1968.69年の全共闘運動から数えて、四十年が経過した。 この年月は、わたしにとって、一方でヘーゲルやサルトル や日本思想と取り組みつつ、他方、学習塾での子どもとの つきあいや子育てや近所づきあいを通して、地域の日常に なじんでいく日々だった。」 --------------------------------------- 。。。なんかね。そんな四十年だったそうですよ。 で、当時、あの中はどのようなことになってたかというと、 --------------------------------------- 一年以上も続いたわたしたち東大文学部のバリケードは、 時とともに、闘争と生活の混じり合うような場となった。 大学当局と対決する姿勢を保持しつつも、そこに出入り する人間の人柄やものの考え方のちがいを互いにおもし ろがる空気ができあがっていったのだった。 戦いの相手たる教授たちの権威主義や事大主義がことさ ら目についたから、自分たちの側では対等で自由な関係 を作り上げようと強く意識した。 それぞれが自分のことばで語る、花火の散るような討議 の情景が、いまでもはっきりと脳裏に浮かぶ。 先が見えないことでかえってエネルギーの高まる空間が、 そこにはあった。 ---------------------------------------- トーン、高いですね しめくくりは、 ---------------------------------------- 全共闘運動の渦中では「自己否定」ということばがしき りに飛び交った。当時はやや倫理的にすぎる観念後に思 えたが、あれから四十年、かつての闘いといまとのつな がりを考えると、日常生活に近づこうとする哲学的な歩 みを自己否定の名で呼んでいいかもしれないと思う。 ---------------------------------------- 。。。。 この文章の中には「対等で自由な関係」が、一回、 「自由で対等な関係」が、二回でてき てます。 全共闘運動のことってわからないんですが、どうやら、 「自由(あるいは対等)で、対等(あるいは自由)な関係」 というのが、キーワードなんでしょうか。 わたしらは、ものごとを深く考えてから行動したりはし ません。 まず、しなくちゃならないこと、「身近に起こるさまざま な事柄」には、素早く対処して日々を送っています。 そんな「深く考えるに値する問題に思えてきたのだ。」だ なんて。。。40年。。インテリさんは、違うなぁ。。 藤原伊織氏、長谷川宏氏、加藤一郎氏と、、、文系の方 ばかりでした。たまたまなんでしょうか。 藤原氏の小説を読んだ。加藤一郎氏の新聞記事を読んだ。 長谷川宏氏のコラムを読んだ。たったこれだけのことで、 あーだ、こーだとはとても言えたものではありませんが、 私自身の中ではいろいろ思うことがあります。 疑問もたくさんあります。 空しさが大半を占めていますが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009/03/23 10:34:21 PM
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