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武田滅亡後の武川衆の動向
◇米倉忠継(重継の次男) 天正10年(1582) 39歳 武田氏滅亡後、遠江国桐山(静岡県金谷町・榛原町)に潜居、徳川家より扶持を受ける。 天正10年6月 徳川家の甲斐入国に際し、折井次昌と共に武川衆を率いる。 天正10年12月 巨摩郡円井郷(韮崎市)に430貫文を給される。 天正18年(1590) 46歳 武藏国鉢形(埼玉県寄居町)に750石を給される。 【米倉六郎右衛門尉種継】 慶長五年四月二十日 米倉六郎右衛門尉種継、信玄の位牌を高野山に建てる。 墓は、神奈川県中井町の米倉寺 89歳 高野山位牌 「武州大里郡住米倉六郎右衛門尉種継建之、 月、甲州守信玄大居士 神儀、 慶長五暦卯月廿日 逝去三(四)月十二日」 ・住居 武州大里郡(埼玉県熊谷市) 神奈川県中井町 武田氏滅亡直後の武川衆は、遠江国桐山(静岡県金谷町・榛原町)
◆宗参寺 天文13年(1544年)牛込城主藤原勝家により創建、曹洞宗のお寺。 武田家臣の(子孫の)墓(明治以降の累代の墓) ◇山高氏の墓 信之、親之、信親、信直 長男の親重から葬地 親重(母、武田家臣逸見兵庫頭の娘)(室は跡部紀伊守景孝の娘) 山高信直までは高龍寺を菩提寺
【成瀬正一】(Wikipedia) 天正10年(1582年) 徳川家康が甲斐国を支配 日下部定好と関東地方移封までの間甲斐一国の奉行を務める。 奉行になると米倉忠継、折井次昌を筆頭に武川衆や多数の武田旧臣の安堵状を取り付け、武田遺臣の取り込みを行う。 武蔵国鉢形城の代官に任ぜられ、与力の武川衆と共に統治を行う。 天正13年(1585年) 石川数正が出奔、家康は三河以来の軍法が使用不可能になる。 家康は正一に命じて、正一の与力武川衆による武田式軍法へ大々的な変更を実施 『旗下大番六備の作法の書』、『分国の仕置』、『法度の式目九十九箇条』、『軍伍』を徳川と共に見つけ出す。 【大久保長安】 武田時代徐々に頭角を現し、初期は成瀬・日下部の両職の体制、後期は成瀬、日下部、大久保の三奉行の体制になる。 井伊直政の赤備えには諸角虎定の首を奪い返した石黒将監が居る。 天正13年(1585年) 【成瀬正成】 新設根来組の組頭に正一の長男正成が勤める。 【山口重政】 根来鉄砲組師範で牛久藩主、山口重政は、正一の三男正武の最初の舅である。 天正20年(1592年) 秩父神社の本殿再建を行う。 秩父や八王子は良質の石灰や木材が産出、江戸城や城下の建設資材として供給を大久保長安(当時、八王子)と連携して供給する。 関ヶ原の戦、日下部定好と共に、秀忠の旗奉行として従軍 後に武蔵・近江に2,100石を与えられた。 関ヶ原の戦い以後、そのまま伏見城留守居役に任ぜられる。 元和元年(1615年) 家康より亀山城を与え諸侯に列するとの内示を受けるが、辞退し伏見で生涯を閉じる。
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最終更新日
2016年02月19日 14時17分05秒
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