甲斐駒ケ岳の大観
甲斐駒ヶ岳(嶽)『白州町誌』第四節 山岳信仰 山寺仁太郎氏著
主として甲斐駒ケ嶽について
甲斐駒ケ嶽は標高二九六五・五八メートル、南アルブスの北端に鎮座して、花崗岩の大三角錐を屹立(きつりつ)している。県内各地からそれと指呼することができ、中央道や国鉄中央線を通過する旅人を瞳目させる山岳景観である。特に七里岩台上から、釜無川の河谷の上に、二千数百メートルの高度差を持して一気に聳え立つ雄姿は格別に印象深いものがある。
駒ケ嶽山頂を最高点として、その東麓に展開する白州町の鳥瞰画の様に美しいと言わねばならぬ。甲斐国志に曰く、
「墟(小渕沢町篠尾塁跡)ノ上ヨリ西南ニ望メ駒ケ嶽鳳凰ノ諸山神秀霊区尾白川・濁川(神宮川流レ下ル。白砂雪ノ如ク白須・鳥原ノ松林地ニ布キテ青ク駅路ハ迤邐(連り続くさま)トシテ其ノ中ニ亘レリ。実ニ北辺ニ最クル佳境ナリ」と。
山岳の景観を説いて第一人者といわれた深田久弥は、昭和四十六年三月二十日、韮崎市東方の茅ケ岳の山頂近くで、六十八才の生涯を閉じたが、彼が早春の茅ケ岳を目指したのは、第-に南アルプスの春雪の大観を一望の中に収めるためであった。山頂から遠望する駒ケ嶽や鳳風山、白根三山は圧倒的な山岳パノラマを展開する天下の絶景である。著名な山岳人深田久弥の終焉の目に映じたものは、甲斐駒ケ嶽ではなかったか。
深田久弥は橘南谿の「東遊記」や谷文晃の「日本名山図会」などの伝統にならって、日本の名山選定に着眼、「日本百名山」を残した。その百名山の選定に当って、彼は第一に山の品格、第二に山の歴史、第三に山の個性という基準を設けることを忘れなかった。彼の長年にわたる登山家としての山歴のしからしむるものであった。山梨県及びその周辺の山々だけでも二十座近くが選ばれているが、その中で、特筆大書しているのが、この甲斐駒ケ嶽である。名山としての所以を緯々として説いて最後に、「甲斐駒ケ嶽は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われるとしても、私はこの山を落さないだろう」と結ぶ。深田久弥の眼識によれば、その品格、歴史、個性という点で、駒ケ嶽は日本の山岳でベストテンに入る山と言えるのである。
駒ヶ岳 山名の由来
日本全国には「駒」という山名を冠する山が頗る多いこと、しかも本州の富山、長野、静岡の三県によって劃せられる地域から、東・北日本に偏在することは、興味深い地名現象として、つとに地理学者、民俗学者或いは、山岳研究家の注目するところであった。
「駒」を冠する山名が、東・北日本に集中して、西、南日本に稀有であるところに、山名探究と、山岳信仰の特色を説く鍵が秘められるていると考えられる。有史以来馬の生産飼畜に関係深い関東・東北・北海道に多くその例を見るのであるが、それらの「駒ヶ岳」 の中で最高の海抜を誇るのが、白州町西境に聳える甲斐駒ケ嶽であって、その山頂には、
二九六五・五八メートルの一等三角点標石が座っている。二番目に高い中央アルプスの木曽駒ヶ岳は二九五六メートル、約一〇メートル低いのである。
各地に「駒ヶ岳」という山名が多いために、それを区別する必要を生じ、複合した山名、つまり何々駒ヶ岳と称したのは主として、明治以降のことであった。特に陸軍参謀本部陸地測量部(その仕事は現在、国土地理院に継承されている)の五万分一地形図が一般化して、山名の混同を防ぐために生じたものと言えよう。
白州町の「駒ケ嶽」は、その西方、伊那盆地を隔てて対岐する長野県の「駒ヶ岳」とは特に混同されやすかった。そのために、甲州の「駒ケ嶽」を一般に「甲斐駒ケ嶽」木曽の「駒ケ嶽」を「木曽駒ヶ岳」と呼称するようになり、さらに前者を東駒、後者を西駒などという呼び方も一般的になった。
余談ではあるが、甲斐駒ケ嶽を曽つて自崩山(シラクズレヤマ)と称していた時期があった。信州側の呼び方で「駒ヶ岳」を区別する必要から生じたとも想像される。山頂附近の花崗岩の崩壊した山名に由来した呼称であるが、明治末年までは、地元民も、登山者も実際に使用し、白崩神社という神社もあった。事実、明治四十年ころは、甲州で言う駒ヶ岳と信州の白崩山とは別個の山岳と考えられたこともあった(鳥山悌成、梅沢親光、「自崩山に向ふの記」明治四十年山岳第二-第三号所収)。当時、現在の仙丈ケ岳なども前岳と呼ばれていて、駒ケ嶽(自崩山)を主峰とするその前山の意味であった。
「駒ヶ岳」という山名を有する山々の由来を概観すると、
一、山容が馬の形をしている。
二、残雪の形(雪形)が馬の姿に現われ、農事暦の目安とされたこと。
三、山中に清流があって神馬を生ずるという伝承があること。
四、山麓に高麗人が住み、牧馬と関係すること。
五、山頂に山神として駒形権現を祀ったこと。(甲斐国志)
などの諸説が考えられるのであるが、甲斐駒ケ嶽の場合は、一、二には疑問があり、四、の高麗人と関係するという説は甚だ興味があるが、山名の起源由来を断定することは暫く避けねばならない。今後甲州の古代史の成果を期待したいからである。