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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2016年02月21日
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北杜市武川町の文化史 『武川村誌』

 絵画は、彫刻、工芸、建築などとならび、造形美術の一分野をなす。油絵、水彩画、版画、南画、北画、日本画と幅は広い。
 建築や、彫刻が三次元の空間の造形的表現であるのに対して、絵画は二次元空間の表現、つまり一平面上に線や、色彩によって、なんらかの形象を表現する芸術である。
 また日本への伝来は仏画に始まるといわれている。大陸からの画風は我が国の風土に醇化されて大和絵を育て、南画に影響されてさらに土佐派の派生を見た。近代洋画の隆盛は、印象派から抽象派に、さらに前衛派の台頭に、美の追求の弛まない努力と精進がつづけられている。この絵画の世界は特別な才能と努力が要求されるためか、庶民性と優れた画家の輩出はむずかしい。本村には明治、大正時代に三吹の日向彦四郎が南画を、大正、昭和期には柳沢出身の牛田喬修が洋画の大家として知られている。

日向彦四郎(雲城)三枝雲岱に学ぶ
 日向彦四郎は江戸時代弘化元年(1844)十二月十六日三吹村日向忠右衛門の長男として生まれる。
 画家を志し南画の大家三枝雲岱に学び、雲城と号した。花鳥、山水を得意とし、襖絵など数多く残している。
師匠 三枝雲岱
師匠の三枝雲岱は文化八年に浅尾新田に生まれ本姓は小野、年十四歳の時蔵原村の三枝家に養子として入り雲岱はその号である。花鳥画を得意とし明治十三年(1880)、明治天皇御巡幸の際、御岳新道の実景、及び玉堂富貴図二幅を奉献、明治三十三年(1900)大正天皇御大婚に歳寒三友図を作り献納し、それぞれ賞詞を賜り、宮内省が七〇以上の画家を召して屏風絵を画かしめた時にも、その撰に入るなど多くの光栄を得て、明治三十四年(1901)三月、九十一歳をもって没した人である。このような大家雲岱を師とした雲城は何歳ごろ雲岱に学んだのであろぅか、下三吹に山の神信仰の大山祇命の幅がある(武藤孝行蔵)。この絵を雲岱が元治元年に画いているので、下三吹に来遊して画いたとすればこの時弟子入りしたのではないかと思われる。雲城二十一歳の時である。この時からとしても雲岱が明治三十四年(1901)に没するまでとすれば、三七年間雲城五十八歳の時まで学んだごとになる。最も画風が熟した時代であった。
 また雲城は和歌、俳諧を好み書にも巧みであった。号は松哉と称し、大正二年(1913)三富貴神社の献額にその名が見える。画家としての弟子には武藤素白等があり、素白は清一郎といい後に対岳堂素白と称し、明治三十六年(1903)萬休院の献額にその名が記されている。雲城はこのように多岐にわたる風流な持主で襖絵など現在のように印刷物のなかった時代には大いに受けたものである。大正十五年二月四日八十三歳をもって没した。
 八十一歳の時の和歌であるが本人はさぞ嬉しかったことであろう。これは敬老会招待を
受け一首をよめる」と題して
  冬がれの菊のすがたや老みえて 花にましわるけふの嬉しさ
八十一翁 松哉
牛田喬修
 明治三十三年(1900)二月十五日武川村柳沢(旧駒城村)五七九番地において、牛田菊次郎の長男として生まれた。
 生来から画才があり、小学校を卒業すると上京し、大正三年(1914)私立東京中学校に進学した。学生時代から芹田劉生、木村荘八の草土社の影響を受けたため、草土社風の絵を多く画いた。
 山梨師範学校在学中は美術担当の矢崎好幸の門下生の逸材として、画才を伸ばし、大正の末期土屋義郎を中心とした山梨美術団体の草分けでもある赤蓼会に所属した。この会は春陽会系統の集まりで教員出身の画家が多かった。赤蓼会は大正十二年(1923)十月第一回展を甲府商工会議所で開いている。メンバーは、土屋義郎、進藤章、田中常太郎、山村正次、牛田喬修等七人ほどであった。その後も毎年一回グループ展をお城の機山館、柳町の創生館、錦町の永井呉服店の二階等で開催した。当時草土社風の絵が赤蓼会を通じて県下の図画教育に大きく影響して随分流行した。このグループは教員であったことも大いに関係していたことであろう。
牛田喬修はこのころから既に県下有名画家の一員として頭角を表わすところとなり、昭和五年(1930)「卓上静物」が第八回春陽会に見事、入選した。これを契機として発進して上京した。昭和七年、三十二歳の時である。
このころは土屋義郎、進藤章等の上京していたこともかなり影響したことであろう。三人は一九〇〇年生まれの同年輩である。中央画壇において活躍し、良き師を得て精進を重ねた。
 画風は草土社風の静物画であったが、それから脱して次第に印象画風な人物でフォービズムの加味された装飾的なものに移っていった。昭和十二年(1937)一月には土屋義郎等と山梨美術協会を在京会員として結成に力を尽くした。
 性格は非常に真面目な無口の人で、甲斐駒ケ岳の麓の山村の生まれらしい何か毅然とした根強い信念さを大切に抱いて独自な心境を亡くなるまで持ち続けた個性的な画風を貫いた人である。峡北美術の進藤春木は次のように評している。「牛田先生の作品はいい知れない重みと風格があった。カドミュームレッドとバーミリオンを主調にした重厚な色彩は的確な構成力と相まって、そこには古典的な重苦しいまでに静かで厚みのある一種の詩情が漂い、古さの中にも永遠不動の静かな実の世界が存在するかのように思われた。先生はよくルノアールやゴーギャンを引合いに出して批評されていたが、確かにこの画聖の研究をされていて少なからずその影響を受けていたようである。技術をおさえ巧まない黒光りのするような卓上静物にみる強烈な赤を主調にした色彩は今なお私の脳裡に焼きついて離れない」このように柿を画材としてもその構成と色彩に牛田喬修らしい配慮と峡北のローカルの上に立つ感覚を常に生かそうとしていたのである。
 喬修は実に多芸で、師範学校在学時代に絵画は矢崎教授の研究室に籠る他、音楽教授森乙の率いるバイオリンクラブに所属していたのである。その関係か昭和の初年武川小学校教員時代には「雨の武川」「精進音頭」を作詩した。これに平田泉鳳(鉄寿)が作曲し当時の盆踊りには盛んに歌われた。この歌は五十年後昭和五十二年にレコードにして振付けが行われ文化祭に披露された。
 このように彼は高い芸術性を秘めながら、教師として直接、子供たちに絵を教え、文学を教え、音楽を教えた。自らは、山美協、春陽会に属して本格的実の追求に精進していたのである。
 昭和二十年(1945)四月戦災のためやむなく柳沢の生家に帰ったが、在京中も山梨美術のためには常に協力して来た。
 昭和二十三年十一月、小淵沢の進藤章等と共に峡北美術協会を創設した。当時峡北には尾自会の原田成大、小河利政、韮高教師吉野純夫、日本画の斉藤倭文夫、野口栄蔵などが賛同し「会員相互の研鑽と地方芸術文化への貢献」とキャッチフレーズをかかげて発足した。小淵沢新制中学校の竣工記念行事に参加して第一回展がもたれ、土屋義郎、相田隆太郎、石原文雄各位の記念講演会が行われた。その後は郡下の要所要所において公募展が開催されたが、いつも牛田は中心的立場で運営にあたり個性的な力作を発表した。
 また中央画壇春陽会にも立派な作品を出品し七回の入選画歴を残している。土屋義郎も「当時春陽会展において入選することは大変むずかしいことだったが牛田君はよく努力しこの栄誉をかちとったことは実に素晴らしい。」と評している。
 名前は喬修(たかよし)であるがサインは総べて(USHDA)または(KYOSHHU)である。ただ一点だけ実相寺、日研上人の画像に喬修とサインしている。
 戦後郷里の小中学校で教鞭を執っていたが昭和三十二年(1957)職を辞し、専ら絵筆に敏腕を揮っていたが、昭和三十六年(1961)一月三十一日、六十一歳にて逝去した。
 「謙敬院育英日喬居士」菩提寺は武川村山高大津山実相寺、柳沢の墓地に眠っている。
 昭和五十二年五月有志長坂町富岡の元高校教師現峡北美術会員である吉沢真、陶芸家の林立平、郷土史研究家中山嘉明の三名によって牛田喬修画集「赤蓼」を発刊した。
 武川の生んだ大芸術家牛田喬修の作品は永遠に生き続けている。




北杜市武川町の文化史 墨跡 石原守政ほか『武川村誌』
 書は文字を素材とする造形芸術で、中国及び中国の文字を使用する朝鮮、日本、安南などで発達した。
 文字は言語に代わる符号として発達したので、万人に共通し理解される一定の約束さえ守られて書かれるなら、その結果としての形の美醜は問題としないともいえる。
 しかし同じ文字を書くなら出来るだけ見た目に美しくしようとするのが人間の表現本能である。したがってその形と線などの中に美しさを表現する造形美術である。
 紙、筆、墨の発明によって中国に花開いた書もまた我国民の文生活をいやがうえにも豊かにし、その芸術性の向上と普及に著大な効果をもたらしたのであった。
 長い伝統を有する書であったけれど、それが庶民のものとなったのは、明治・大正時代以降であって、それまでは殿上人や僧侶、神官、武士、学者など一部の知識階級、権力者に限られていたのである。
 明治初年、学制発布と共に義務教育体制が整備され、書は毛筆習字という基礎的段階の中で国民の中に解放され、そして定着していったのである。一方、「かな」は草書をもとにして日本で造られ、女手といわれるように、はじめは女子の間で用いられたが、平安時代には男の能書家も書くようになった。
 やさしく美しいかなは漢字と肩をならべ日本書道の主流となった。江戸時代の古文書に見られる文字はお家流で、尊円流が江戸幕府の公文書に採用されたのである。しかし儒者は明清の書を学んで唐様が流行した。本村の能筆家は次の人たちが特に有名であった。
武川町の文人 石原守政(常山)
 嵩山は寛政八丙辰(一七九六)七月二十八日山高村石原守敬の長男として生まれ通称太郎左衛門といい後に民部左衛門と改めた。
 諱は守政、八森館高山と号した。後に徳翁と改めている。漢学を市川南屏に学び、特に音韻学に精し詩文、俳諧を能くした。また書道に長じ特に好んで古篆を書している。嵩山の書は神社に寺院にその筆跡を残し、鳳風山下の碩学といわれ世間に名声高く門葉には桜井義令、中山正俊、清水有文等有名人を輩出している。嵩山は和歌、俳句、漢詩とあまたの大作を遺して明治十五年二月九日、八十六歳の生涯を閉じた。山高高竜寺に墓がある。

武川町の文人 一木義三郎(白髯)
 慶応二年(1866)、黒沢村斉藤義思忠次男として生まれ一木小左衛門の養子となる。
 明治十九年(1886)徽典館高等師範科卒業、北巨摩、中巨摩郡下小学校長を歴任、
郡教育会評議員、北巨摩教育会分会長等その功績大にして県より表彰された。
 大正十年(1921)三月、在職三十五年で退職、その後は社会教育一木式健康法で朝鮮、
満州、米国等行脚し、特に書道に長じ「神州神代桜の下に生きる」と印し、号を自賛と称した。自ら頬に白い髯を伸ばし、頼まれればいつ、どこででも喜んで一筆認めてくれた。襖紙、横額、掛け字等本村内にはかなり書き残されている。昭和十二年(1937)一月、台南にて七十二歳で永眠された。

武川町出身 斉木逸造(天民)甲府市長 北巨摩
 明治四年(1871)牧原村医師斉木良斉の長男として生まれ、同三十二年(1899)甲斐新聞を起し、のち社長となり峡中文化の推進に努めた。
 明治三十八年(1905)甲府市会議員、同四十年県会議員となってから再選されること五回、その間市会議長、甲府市長、県会議長に就任し、議会議員在職四〇年に達した。生涯を通じて地方自治に貢献した功績を認められ、昭和二十六年(1951)藍綬褒章を授与された。
 甲府市会議長、甲府市長、県会議長など政治生活が長かったため名士として書も能くし、号を天民と称し、一般的には天民翁といえば県民なら誰でも知るところである。
 昭和三十年四月、甲府市名誉市民の称号を贈られ、同年十一月一日八五歳の生涯を終わる。実相寺に墓がある。

武川町の文人 長坂勘三郎(桂園)北巨摩郡勢一斑の編集
 明治六年(1873)八月、牧之原において父園兵衛の長男として生まれた。明治二十八年(1895)、山梨県師範学校卒業、北都留郡葛野尋常小学校訓導兼校長となり、明治四十二年(1909)、中巨摩郡視学を歴任した。
大正十三年(1924)、北巨摩郡勢一斑を編纂、退職後は郷里において昭和十七年(1942)、武川村長、同農業会長となり、二十年(1945)辞任する。
 この間、長坂桂国の号をもって俳句も、精力的に雲母に投句するなど活躍した。特に書道には長じ雅号を武郷と称しその筆跡を残している。
 昭和二十四年(1949)十月、七十七歳をもって逝去した。

武川町の文人 松永実円(日研)実相寺住職
 実相寺第二十九世住職。明治二十四年(1891)四月三日、岐阜市元士族渡辺豊吉三男に生まれ幼くして松永家を継ぐ。七歳のとき当山第二十八世永田日祐聖人の室に入り慈教を受けた。姓は松永、字は実円、日研と称し、大正二年(1913)三月、東京堀の内檀林本科卒業、大正三年新潟県大乗寺住職、同八年三月実相寺住職に就任する。
 宗務所協議員、参事、録司補専任布教師、宗務副長等を歴任し、山梨県第四部宗務長等宗務を統理する。職業上からも、書は特に堪能で、わざに練達した住僧としてその名を天下に知らしめた。
権大僧正に叙せられ、昭和四十五年五月三十一日八十歳をもって世寿した。





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最終更新日  2021年04月09日 16時08分08秒
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