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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2016年02月24日
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素堂と芭蕉の俳諧感の相違

 芭蕉と素堂との俳諧の間に径程を生じて来たのは、確かに元禄二・三年頃からではあるが、これは二人の個性の発とも見るべきで、貞門俳諧に飽き足らぬ思いを持っていた素堂は芭蕉と同様、西山宗因に接してたちまち談林風に染まった。しかし素堂は主家を致任する前後から、談林俳諧の行き詰まりを感じていたらしく、景情の融合・情の俳諧・詩は心の絵として、用語と句工実の自由などを目途に、純正風(蕉風)的句を吟じている。

一方、芭蕉も理由は確かには判らないが、素堂の退隠の翌年に職を辞して深川に居を移し、素堂の俳論に触発されてか、俳諧新風の工案を始めた訳である。しかし談林風、これより派生した漢詩文調を容易に脱することができずに、苦悶の日々を過ごしていた様である。これを打開するべく、素堂が「誹枕」の序文で述べた「古人の風雅のこゝろは旅にあり(是此道の情なるをや)その生き方の共通性にある」と説き、これによって触発されたのであろう芭蕉は、迷い悩みながら蕉風樹立に向け出発したのである。それが天和三年の「虚栗」軽又の新風宣示となり、貞享元年の甲子吟行(野ざらし紀行)となって結実し、これに跋文を著した素堂の賞め方もさすがであった。煩雑になるため掲出しないが、芭蕉をのせるこつは流石である。芭蕉はこの吟行の途時名古屋での「冬の日」は、漢詩文調を脱して、蕉風を樹立したものと評されるもので、後の「蕉風三変」と称される初頭に立つものであるが、延宝八年からあしかけ五年である。

 その後、貞亨四年秋の「蓑虫贈答」のあと、芭蕉は「笈の小文」となる芳野吟行に出発し、素堂は其角の要請で「続虚栗」の序文に「景情の融合の必要性を指摘して、情(心)の重要性を説いた」のである。それが元禄二年の芭蕉の「不易流行論」となって、元禄四年の「猿蓑」に結実して行くのである。これまた五年の日時を要している。しかしその後の三変目の「軽み」への転換は早く、元禄七年には手紙で「かるみ」を頻りに提唱する。

 「かるみ」については芭蕉の俳論でふれる。

 素堂は芭蕉に依頼されたのであろう「連句俳論」を纏めたあと、芭蕉後見の重荷を下ろしたと言うべきか、以前の素堂詞とはやや異なる「かるみ」(芭蕉のかるみとは異なるが)を増した句作が増加する。

 素堂の特徴は用語の取り方で、極めて自由な考えを持って、用語に対する固定観に囚われず、こころを表現するのに、適切なことばを用いることを目当てとしている。従って句は清雅・高貴・蒼古・端正・淡白・静寂を特色とするが、その反面、芭蕉とは異なる、煮えたぎる、強く深い情熱の奔騰は感じられない。恐らく素堂の性格から来るものである。与謝蕪村が『素堂が洒落云々』と言う事もうなずかれる。清水茂夫氏が、隠者生活に徹し得た性格に基づくであろう。と解説されている。また素堂の抒情は、短歌的叙情は感情の奔騰に即して成立するとすれば、俳句的抒情は対象にそくして、的確端的な認識を前提とする抒情であり、短歌的抒情の否定の上に立って成り立つ抒情が、俳句の独特の抒情と言い得る。とも説かれる。

 甥の黒露が素堂の話として「摩詞十五夜」(素堂五十回忌)の庵語に

京の言水歳旦に、初空やたば粉の輪より間の比叡 といふ句の拙か、初心のほど甚おもしろく思ひて素翁へ申ければ、しばらくして「間の富士とこそいふべけれ」との給ふを、尤の事とおもひ、ある日専吟にかく有しと出ければ専吟の曰、言水もさ思はめと京ゆへ也。そこらが素堂の古き心よりの評也と云ひしも、亦尤とおもひ、其後又翁へ専吟評をいひければ、

夫々と皆趣向を借て深く入たらぬ故の論也。予が句に

 地は達し星に宿かれ夕雲雀

とせし句、地(ヂ)は遠しと濁りて吟ずる時は、一句すたるとおもひ、終に披露せず捨てり。其句も京故ならずば捨るがよし、秋風ぞ吹しら川の関との歌の咄しせしをば、いかに心得たる。とて示し給ふ。

以下略とある。地は遠し、の句は元禄初期のものであろう、言水は享保七年の歿、黒露はまだ始めた頃で雁山を称していた時である。恐らく宝永年間の事であろう。素堂の句作法を伝えるひとこまでもある。

 素堂には『松の奥・梅の奥』の外に俳論はない。この外には、露言門の挙堂が編著した「真木柱」 (元禄十年刊)があり、素堂の句を何々体などと類別して一句づつ上げて、発句の作法書の体にしてある。露言は内藤風虎の門で、後に調和の門にはいった俳諧師であり、素堂とも親しくしていた人である。従って挙堂も素堂に近かったのであろう。

 やゝ年代が下がって、元禄十四五年代から宝永初め頃までのものと考えられる『素翁口伝』があり、伝世した九世馬場錦江が識書に

 此俳諧口伝一巻亡素翁の真蹟のよしにて曇華斎に来りしを其格見定めとして残しけるを、其儘にうつし置かしむるもの也。但此より後きれて見へず。素翁のしるす処の名もなしといへども、一体の意味事凡の作りすべきものにあらず、全うしざるハ残り多き事なり。

(以下略)

とある。この冊子の後ろの部分が欠けているため、どの程度の規模で綴られたのかは不明であるが、各項目に芭蕉の句を例句として掲出して、付合に其角・野坂らを出すなどしてあり、不易流行論や支考の俗談平話などにもふれ、賦物之口決の項には連歌古格を以てものであろう。

素堂が俳階から遠ざかったのは、芭蕉の死没前後に身辺に不幸が集中した事と、芭蕉の門人間の対立が激化したことで、生前より芭蕉は向背・あつれき・確執などに悩まされており、芭蕉の死により蕉門の分裂を修復させようとしていたのである。素堂は江戸より京都を拠点に去来等をして蕉門新風を興させようと考えたとしても、無理はない。しかし挫折に終わったのである。素堂が期待していた去来は宝永元年病死した。

 素堂の俳論は死ぬまで本質は変わらなかった。貞享四年前後から俳諧の外に漢詩文や和歌などにも指向が広がったが、俳諧の作句に些かの揺るぎもない。寧ろ枯れた平明淡白な句が多くなる。俳文にも新味のある試みをしている。






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最終更新日  2016年02月24日 05時46分54秒
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