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2019年03月03日
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武田信玄伝<誕生から初婚まで>


生誕の生年月日
武田信玄は大永元年(1521)十一月三日、甲府の武田館(騨鰯ヶ崎館)の要害城(要害山)で生まれている。


父と母
父は武田家十六代の信虎(父二十八歳)。母は甲府盆地西郡の武田氏一族である大丼信達の娘((母二十四歳)。


誕生地
『高白斎記』で、「九月、九島ノ凶()事、十六日乙丑、亥刻富田落城、寅刻御前御城へ御登り、十月十六日丁未、於飯田合戦御勝利、同十一月三日辛亥、戌刻晴信公誕生、蟇目曾根三河守縄長相勤」
《註》これによると、大永元年の九月に、駿河今川氏の重臣である遠州土方城主の福島正成らが大軍をもって甲州へ攻め入り、十六日には大井夫人の企家である西郡の富田城(甲西町戸田)が落城したので、慎妊していた夫人は大事をとって、館の裏手の要害城へ避難し、飯円河原の合戦で信虎が勝利した直後の十一月三日戌刻(午後八時頃)に晴信、(信玄)が誕生。
《註》蟇目役とは祝儀の使者であって、曾根縄長は、後に活躍する昌長の父であろうか。


誕生の模様
『高白斎記』十一月二十三日の上条河原(中巨摩郡敷島町)の合戦で、信虎が大勝。後の二十七日に、積翠寺より母子が武田館へ戻った。
《註》文中に積翠寺とあり、同寺に産湯跡などがある。晴信の誕坐地を同寺とする意見もある。
《註》要害城は、その地名から積翠寺城(石水寺城)とも。山頂には現在でも城郭遺構残存する。
《註》駿河勢との飯田河原・上条河原合戦は、信虎の領国経営上での最大・最後の危機で、移転間もない甲府館はいまだ未完成で、周囲の反乱も続発していた時期。信虎は、この合戦の大勝利を記念し、合戦の最中に誕生した子の幼名を「勝千代」と称した(『甲陽軍鑑』)


学び
西郡鰍沢郷の古長禅寺の岐秀元伯から、禅学や兵法を学んだといわれ、この寺は後に甲府へ移り、晴信薙髪の道場とよばれている。
《註》伝説的事項
・婦人の夢―太郎の誕生前に母の大井夫人が諏訪明神の夢を見たという。
・信虎の夢―信玄が曾我五郎の生まれ変わりで、黄金の目貫を片手にもって生まれてくるいう夢を見た。(夢見山・武田館の東)ただ、母方の菩提寺である


結婚 子供


天文二年(1533)、太郎・勝千代は、最初の妻を迎える(関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉朝興(武蔵河越城主)の娘である。(『勝山記』)
勝山記、天文二年条に「此年、武田殿川越殿ノ息女ヲムカヒ申候」
《註》当時、信虎は河越城の上杉朝興と結んで、小田原の北条氏綱と対立抗争にあり、この婚姻は同盟関係を強化が目的。
《註》最初の妻上杉氏が正室かどうかははっきりしない。
『勝山記』の天文三年条には「此年霜月、当国屋形源太郎殿(勝千代)上様、川越ヨリ御越候而、一年御座候而、懐胎被食、死去被食候」、
《註》信玄に嫁して一年余の後に、懐妊死去してしまった。時に太郎はまだ元服前の十四歳で、上杉氏の年齢は不詳。


信玄の兄弟
・信玄には四歳上の庶子の兄竹松がいたといい、大永三年十一月一日に、わずか七歳で夭折(「誓願寺記」)
・信玄の弟として
信繁―永禄四年(一五六一)九月の川中島の戦いで戦死。
信廉―後に逍遥軒と号し、親族衆として信玄を補佐、絵画も多く残している。
信是―松尾家を継ぐ。
宗智―出家して恵林寺僧となる。
信実―河窪氏を継ぐ。


・姉妹について(政略結婚)
同腹の姉―今川義元夫人
妾腹の妹-穴山信友夫人・諏訪頼重夫人(彌々御料人)
政略結婚させられた。
・信虎の四女以下、七女までは、晴信によって、信濃の旧家豪族のもとへ嫁ぐ(政略結婚)
武田信玄伝<元服から自立まで>


・元服
元服は、天文五年(1536)の十六歳の時。
《参考》『高白斎記』「三月、武田晴信公元服、十六歳、義晴ノ諱(いみな)ノ晴ノ字ヲ賜」
《参考》『甲陽軍鑑』でもほぼ同様の記述。『軍鑑』はこの時に同時に「信濃守、大膳大夫」を拝領した
《註》大膳大夫の史料での初見は、天文十一年九月二十四日である(「守矢家文書」)
《註》大膳職は宮中の食膳を司る官職で、その長官である大夫は従四位下が相当位
《参考》確実な史料上では、天文十七年十一月の塩山向岳寺宛の条目の署名に「正四位下源朝臣晴信」とある。
《註》天文十九年十一月二十四日の身延山久遠寺へ奉納した法華経の奥書に「従四位下武田大膳大夫兼信濃守源晴信」とある(『身延町誌』)


信玄、大正三年(1914) 從三位が追贈
 信玄は、近代になっての大正三年(1914)、大正天皇の即位大典にあたって、歴史上の人物に追贈位があり、その時、民政上の功績が大きいということで、從三位が追贈された。その位記は現在でも信玄を祀る武田神社で所蔵しているが、この時の調査
でも、それまでの位を従四位下としている(渡辺世祐氏『武田信玄の経緯と修養』)


信玄、正室を迎える
天文六年二月、晴信は今川義元の斡旋で、公家三条公頼の二女を正室として迎えている。(三条夫人)
この時、晴信の姉が義元に嫁している。(この二つの婚儀は同時進行)
《註》晴信の婚儀については、天文五年七月とする説もある。この時期の義元は家督争い(花倉の乱)の禍中。
4、信玄の初陣
《参考資料》『甲陽軍鑑』(品十八)
天文五年十一月二十一日に、父信虎が信濃佐久郡を攻めた折、海の口城を三十四日間も包囲したが、落城させられなかったものを、殿(しんがり)軍として残った晴信が、十二月二十六日の一夜のうちに急襲して落城させた。


 







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最終更新日  2019年03月03日 17時18分23秒
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