武田信玄伝<信虎退隠と信玄の家督相続>
1、佐久郡への進出
天文十年(1541)五月、前年につづいて信虎・晴信父子は、揃って佐久郡に出陣し、諏訪頼重・村上義清と連合して、小県郡の滋野氏一族を攻撃した。滋野氏(海野氏・彌津・矢沢・望月氏など。小県郡~北佐久郡を支配)《参考資料》「神使御頭之日記」
諏訪上社の神長官であった守矢家の記録「神使御頭之日記」によれば、五月十三日に信虎・頼重・義清の三者が合力して尾山城(小県郡丸子町)を攻め落とし、翌日は海野平で彌津元直と戦ってこれを撃破。彌津・矢沢は諏訪氏のとりなしによって許されたが、海野棟綱は関東へ落ち、関東管領の上杉憲政を頼った。
2、信虎は駿河に隠退・信玄家督相続へ
信虎・晴信父子がいつ甲府へ帰陣した日時は明確ではないが、六月十四日には、信虎が女婿である駿河の今川義元のもとへ出発し、その日のうちに嫡男晴信のクーデターによって、政権の座を追われた。(諸説あり)《参考資料》「甲斐国志」
父子合意説(晴信が父信虎を駿河へ追放したのは事前に両者の合意があってのことで、いずれ駿河を領国化する遠大な計画の一環であった。
《註》この説は、晴信反逆説を弁護したもので、江戸時代の甲州人の信玄贔屓から出たものだった。との説もある。
《参考資料》『勝山記』
此年六月十四日ニ、武田大夫殿様、親ノ信虎ヲ駿河国へ押越申候。余リニ悪行ヲ被成候間、加様被食候。去程ニ地下・侍・出家、男女共喜致満足候事無限。
《註》晴信は親の信虎を駿河へ押し込めたが、信虎に悪行が多く、人民が喜んだといっている。
《参考資料》『塩山向岳禅庵小年代記』
信虎に失政があったから領民は領主の交替を望み、晴信がその期待に応えてクーデターを敢行したということである。
《註》この考え方については、晴信の逆意を正当化するために信虎の悪行が強調されていると見る意見もある。
《参考資料》『甲陽軍艦』
信虎は次男の信繁の方を寵愛し、晴信を廃嫡するような言動があった。
《註》武田家臣団内部の問題
家臣団の分裂であって、信虎の政権にみきりをつけて、板垣信方や飯部兵部らの新興家臣層が晴信を擁立する動きに出た。
3、受け入れ側の今川義元
会の事情は別にして、信虎を受け入れた側の今川義元の動向であるが、事件後の九月二十三日に晴信に宛てた義元書状によれば(伊豆「堀江文書」)、事件直後の六月末に太原崇孚雪斎と岡部美濃守の両名を甲府へ遣わし、信虎の隠居料のことを相談させているし、信虎付きの女中衆の催促などをしている。