信玄の家督相続
・天文十年(1541)六月十七日には、躑躅(つつじ)ヶ崎館に入る。
・二十八日には家督相続の祝儀を催した。
《参考資料》「華光院文書」
晴信が当主として発給した文書の初見は、天文十年年八月十日の甲府の良林寺宛の寺領寄進状(「華光院文書」)
《註》塩部(甲府市)の内で三貫文を与えるとある。
《参考資料》知行宛行状
天文十年十月四日付で佐野源右衛門に与えた知行宛行状では早くも「竜朱印」が便われている。
《註》晴信は家督相続直後に家印としての竜朱印を定めたもの。
5、信玄の外交
天文十年は不動。
天文十一年七月には同盟者である諏訪頼重を急襲し、諏訪盆地へ進出し後の信濃経略の第一歩を踏み出す。
この時期には、駿河の今川兵とは同盟関係が固く、それを通じて相模の北条氏綱とも友好関係を保っていた。
6、駿河引隠退後の信虎
・永禄三年(1560)に今川義元が桶狭閉の戦いで織田信長に敗れると京都へ入る。
・ さらに高野山や諸国を流浪
・ 死の直前に伊那谷に帰る。
・ 晴信が没した羽年、天正二年三月に八十二歳で病死。
<信玄公御家中の諸侍の礼三ケ条>(「甲陽軍艦」品第三十九)
一、諸人は武運のために護摩(締燃幻ご)を命じられ、修行なされたこと。
二、すぐれた忠節の武士が死去すると、弔いを仰せつけられ、卒塔婆を建てなされたこと。
三、御家中で討死した衆には、七月十四日・十五日には御主殿に棚をかざりつけて、御回向をあそばLたこと。
◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。
<信玄公が同法に背いた者でも、人によっては二度までは御免なされたこと五ケ条>(「甲陽軍艦」品第三十九)
一、諸浪人衆また降参した衆は二皮までは御免なされた。先方衆は御ゆるしにはならなかった。
二、忠節忠功の武十の子孫だった場合には、御成敗となるところも命を助けて、坂を越えさせて国外追放か、改易の罪の場合は寺入を命じられた。
三、出家、僧侶の妻帯については、役銭を出させて御許しのこと。
四、町人百姓の喧嘩は、過銭(過料の銭)にかえさせて御免のこと。
五、非公事(埋に反する訴訟)の場合も、過銭をもってゆるしなされたこと。以上。
◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。
<武田信玄公、ご家中の武士の手柄>
一、
・第一に、一番鑓を合せた者。
・第二に鑓で敵を突き伏せての手柄、および馬上から組んで落してあげた手柄。
・第三に二番鑓または一番鑓の脇からの鑓をつけたこと。
この三つの種類をあっぱれな手柄とされた。
・また、自分が所属していた隊から突進して人より先に攻めかかったところ、敵がくいとめることができず、追っていって鑓で突くというのも、一番鑓に劣らぬ名誉である。
・同じく敵中に深入りして退くとき、自分だけが一歩後に残って、ゆっくりと退くのは一番鑓に匹敵する心がけである。
・まして、味方が負傷したのを守って退く、あるいは討死した味方の首を敵にうたせず、首をあげて退いてくるというのも、あっぱれな心がけである。
・逃れる敵を追って取った首は、上の下の手柄である。
・しかし敵を討とうとしているうおに、首を取りそこねることもあるであろう。
・したがって合戦の現場では、どんな者であっても敵ならば、まず討ち取ることである。
・もし悪首と思えば、首帳に記載すべきではあるまい。
一、
また虎口から押し入った場合、城を乗取った場合の戦功の上中下は、その入口において、第一番に敵と鑓を合せたものを上の手柄とする。また城砦の堀が浅くせまく、構造が堅出でないところに、いち早く乗りこんだものを上の手柄という理由は、門口や、堅固でない場所には、城内の兵力が集中しており、弓、鉄砲なども多く備えられているからである。
以上のような定めが信玄公御家の手柄の判断基準である。
一、
かりに五千でも兵を持っている大将を討つのは、武上としては、冥加(連の強い)侍である。だから大切に目をかけることだ。また臣下の首々が、采配を振っている将の首をとった場合も冥加の武士といえる。尊ぶべきだと申された。
◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。
<御感の事>(「甲陽軍艦」品第三十九)
上の手柄は、その奮戦が、全軍の中でもっともすぐれて神妙であったものとする。また部下を持たぬ小身の者が上の手柄を立てた場合を、その者一人の活躍よ
って、主の御本意にそうことができたものをいう。また、国境地帯の戦闘などで出陣して自分の同心、被官などが上の手柄を立てて活躍した者に対しては、そのほう一人の奮戦によって数千の味方を力づけたとする。また、その者に劣らず奮戦し、手柄を立てた武士に対しては、やはり神妙でみごとだとして感状を下される。もしも、主人、寄親贔屓の者の意見によって中や下の功績の者をよくいいたて、そのために上の手柄の者がうずもれるようなことがあってはならないので、旗本の廿人衆、御中間頭衆を通じて御触れを出され、諸家中の人次が、合戦の手柄のことにつき、申しあげたいことがあれば直接、上申書によって申しあげるように、とお触れになった。だから、下友においてもひそかにた依怙贔屓はなかった。これが陰日向を生じなかった原因である。
◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。
<信玄公人の御つかいなされ様>(「甲陽軍艦」品第三十九)
1、第一にまず、陰日向がたいようにということである。人人に陰日向ができるのは、恩賞を与えるにあたって、功績の上中下をよく判断したいときだ。忠節忠功を尽くして、奮闘したということもたい者に、領地を下さるようなことがあれば、手柄のない者たちは、必ず追従をしてうわべをつくろい、出世しようとする。そのために真の忠節忠功の武士をねたみ、その悪口をいって、白分たちの仲問の者をほめたてる。その本心は、主君のおんためなど考えもせず、意地きたなく卑下して動くだけだから、これが陰日向があるということなのだ。
2、信玄公は、忠節忠功の武上に対しては、大身小身によらず、身分の高低によらず、当人の手柄に応じて、御感状、御恩賞を下さり、人次が最演やとりなしをしても少しも役に立たなかった。これによって人々の陰日向といったことは、まったくなかったのである。
◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。
<信玄公御一代敵合の作法三ヶ条>(「甲陽軍艦」品第三十九)
1、敵の強い点、弱い点をくわしく検討する。またその国の大河、山城、財力のようす、その家中の武士たちの行儀、剛の武士が大身、小身のうちにどれだけいるかについて、味方の物頭衆(指揮者)たちに、よくそのようすを知らせておく。
2、信玄公が仰せられたことで、合戦における勝敗とは、十のものならば六分か七分勝てば、それで十分な勝利であるとお定めになった。とりわけ大合戦においては右の点がとくに重要である。というのは、八分の勝利はすでに危険であり九分十分の勝利は味方が大敗を喫する下地となるから、というのである。
3、信玄公が仰せられるには、戦闘のしかたとして、四十歳以前は勝つように、四十歳から先には負けぬようにとのことであった。
ただ、二十歳前後のころであっても、自分より小身な敵に対しては、負けたければよいのであって、勝ちすごしてはならない。敵に対しては、なおのこと右のとおりである。十分な思慮判断のもとに追いつめ、圧力を加え、将来を第一に考えて気長に対処していくことが肝要だとのことである。
◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。
<信玄公御一代敵合の作法三ヶ条>(「甲陽軍艦」品第三十九)
1、敵の強い点、弱い点をくわしく検討する。またその国の大河、山城、財力のようす、その家中の武士たちの行儀、剛の武士が大身、小身のうちにどれだけいるかについて、味方の物頭衆(指揮者)たちに、よくそのようすを知らせておく。
2、信玄公が仰せられたことで、合戦における勝敗とは、十のものならば六分か七分勝てば、それで十分な勝利であるとお定めになった。とりわけ大合戦においては右の点がとくに重要である。というのは、八分の勝利はすでに危険であり九分十分の勝利は味方が大敗を喫する下地となるから、というのである。
3、信玄公が仰せられるには、戦闘のしかたとして、四十歳以前は勝つように、四十歳から先には負けぬようにとのことであった。
ただ、二十歳前後のころであっても、自分より小身な敵に対しては、負けたければよいのであって、勝ちすごしてはならない。敵に対しては、なおのこと右のとおりである。十分な思慮判断のもとに追いつめ、圧力を加え、将来を第一に考えて気長に対処していくことが肝要だとのことである。
◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。