●永正十八年 大永元年 1522 信虎28歳 信玄1歳
<信玄誕生>
(解説)広瀬氏「武田信玄傳」
大永元年、遠江土方城主福島兵庫頭正成、駿河遠江の兵を一万五千を率いて河内道より襲来して府中の居城に迫る。
武蔵国入間郡河越の城は上杉朝興の没落後、北条氏綱の手裏に入りて、福島左衛門大夫綱成の城代として是を守れり。渠は左馬頭頼国の十四世福島左近将監基宗の後胤にて、父を兵庫頭正成と称す。今川上総介義忠の宿老にて、遠州土方の城主たりしが、文明八年(1476)四月六日義忠、遠江国塩見坂にて亡命の後(中略)正成はその後駿東郡に蟄居して有りしが、所詮甲斐国を伐散して自立せんとの志を発し、旧知の諸士を相語ふに凡そ一万五千人、一時同心したりければ、去らばとて大永元年十月中旬、富士の根方川内通りより甲州山梨郡へ押入り陣を取敷て乱妨をなす。
時に武田左京大夫信虎(二十八歳)その身勇猛有りといへ共、政道に非分多く士民是も困しもて国中半ば身構えする折柄なれば、僅かに相随う者ニ千ばかりに過ざりけれ共、此の勢いを卒して打出しばしば対陣し、六十余日に及んで挑み戦い。、武田家敗亡近からん有様成りしに、甲陽譜代の侍荻原常陸介が武略を以って十二(一か)月廿三日、一條河原(一本飯田河原)に於いて原能登守友胤が為に正成命を没し、その叔父山縣淡路守は小畑山城守虎盛に討たれ云々
福島正成(解説 広瀬氏『武田信玄傳』)
「福島系図」
遠州土方城主、院号玉山法名華山、大永元年卒、率駿遠甲士一万五千余、発行甲州與武田信虎戦、飯田河原討死。
福島氏は美濃国山縣氏の支流にて遠江に移り土方城(後に天神城と改め小笠原氏在城する)に居る。今川氏の被官となり、永正元年両上杉の争いに福島左衛門尉と云う者、大河内備中守とともに氏親に従い出征したること「宗長記」に見える。系図には、左衛門大夫基正善九郎と称する者にて、永正八、九年の頃大河内備中の謀反に與し、土方城を去り、北条氏に頼り駿東郡に蟄居する。永正十五年甲駿両国の調議に遠江士永池九郎左衛門と共に甲駿の和議に與りたる福島道京と同人にて、正成はその男なり。系図に上総介、諸録に兵庫頭とする。父子この頃より甲州の事情に通じ国中の騒乱に乗じて漁夫の利を占めんとしたるなり。
新城の建設とその位置(解説 広瀬氏『武田信玄傳』)
信虎これより先外を憂い、府を躑躅ケ崎に移し、之に居る。この地東北西の三方山を負い南の一方が開けて荒川の河流を帯び要害無比なり。上条河原、飯田河原は府の南一里にあり、共に荒川灘にて島上条郷、飯田郷に属す。
上条河原は西方に竜地の丘陵あり、北に片山、東に湯村の城山を負う。飯田河原は
その東南に連続したる平坦地なり。「甲斐国志」に「そのころ荒川は志摩庄の西に出て釜無川に会し飯田の南畔を東南へ流る荒川灘汎くこれを飯田河原と称したり。北には片山とて千塚・羽黒より小松・古府へ続き西南は崩岩にて荒川に臨む。その西へ対して竜地台とて穂坂の広原あり。福島が陣所はこれなりと言い伝わる。
飯田河原の戦い詳細(解説 広瀬氏『武田信玄傳』)
大永元年(1521)
**2月
この頃より駿河勢襲来る。信虎兵を集めて郡内に入る。
**8月末
川内に入り富士勢と戦う。
**9月16日
富田城落ちる。(富田城は中巨摩郡大井郷にあり。今は戸田という。この頃富田対馬守と云う者有り、大師村・富田村の地頭なるが如し。この城は大井氏の属城に拠り防戦せしと見える)敵兵進んで府城を攻めんとして竜地台を陣地となし攻勢をとりたり。信虎万一のことを考慮して夫人等を要害城に避け、自ら飯田河原に出張して川を挟んで対峙して相持して発せず。
**10月16日
合戦し先ず優勢となる。敵の一隊は敗走して曽根の勝山に拠る。福島の率いる本隊は竜地台に陣して戦いを挑みしかば、
**10月23日
上条河原の合戦となり、福島正成以下将士六百余人戦死し大勝を得たりなり。
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<信玄誕生>
信玄公は父上の信虎公が二十八歳のとき、駿河の福島という武士が、主君の今川(義忠)を亡命させたうえ、甲斐の国攻め落として自国にしょうと、遠州・駿州の軍勢を率いて甲州飯田河原まで侵入し、六十日余り陣を張っていた。その時武田の家中は戦いの態勢をとったものの、もはや御家は滅亡かという状態となった。信虎公の家老萩原常陸守という豪勇の武士が武略によって武田に勝利をもたらし、敵の大将福島を御討ち取りになった。
信玄公はその日に御誕生となった為にご幼名を勝千代と御付けしたのである。そこでこの時の合戦を勝千代殿の合戦と呼ぶのだと、これは信虎公の家老たちの伝承である。云々