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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年03月03日
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信玄逝去につき御遺言」(「甲陽軍艦」品第三十九)

1、  
四月十一日未の刻(午後一時ごろ)から、信玄公は御容態が悪化され、御脈がことのほかに早くなられた。
2、  
また十二日夜、亥の刻(午後九時ごろ)には、口の中にできものができ、御歯が五、六本抜けて、それから次第に衰弱なされる。
3、
死脈をうつ状態とたられたので信玄公は御覚悟なさる。
4、
譜代の家老たち、配下を持ち一家をなす家臣たち、すべてをお召しになり、信玄公は次のように仰せられた。
5、
六年前、駿河へ出陣の前に、板坂法師(医者)がいうには、自分には膈(胸、胸の下に食物がつかえる胃病)という病気があるとのことであった。この病気は、思慮を重ね、心労が積ったので、こうなるのだ、と聞いた。
6、
さて信玄が、若いころから弓矢を取っては、おそらくは現在、日本一すぐれているのは、他将と違っているからだ。
7、
諸国の大名たちも武道にかけては武勇の誉れがあるとはいえ、いずれも他国の大将を互いに頼み合って、両軍が協力することによって勝利を得るもの。
8、
あるいはもっぱら剛強だけをたよりとして、勇名をとどろかすもの。
9、
または多くの国を治めて大身となりながらも、他国の武将の武勲に恐れおののいて、末子を人質に出そうとする侍などがいたと聞いている。
10、
まず北条氏康は、太田三楽・上杉憲政・輝虎(上杉謙信)をそれぞれ敵にまわしてかなわないので、我ら、信玄を頼み、松山陣(埼玉県松山)そのほか一、二度我が軍の出動を依頼してきた。
11、 
今川義元も、氏康と戦った時、我らが出陣して富士山麓の下で北条家を攻め、その結果、今川義元と北条氏康との和睦が成立した。が、これもみな信玄が助けたからだ。
12、 
毛利元就は中国をあらかた支配し、四国、九国()まで威力をふるうので、この元就をおそれて、三好長慶なども元就の配下のようにふるまっているけれども、信長の威にてらして、四郎(毛利元就の子藤四郎)という子を信長へ奉公にやる支度をすすめていると聞く。
13、 
さらに長尾謙信輝虎は武勇を全国にとどろかせたのに発して、上杉(憲政)管領のあとをついだが、我が信玄に敗けたままだ。
14、 
我らの侍大将・高坂弾正に命じ、信玄が出馬しないまま、弾正だけでもって越後の領内へしばしば侵入するが、越後から甲州の領内へ攻め入るなどということは夢にも考えられぬことだ。この頃は信州の内にさえ、おいそれとは出動できないありさまだ。その上、越中では、大将らしい者もいたいのに敗れ、敵に攻められて、それでも翌年にはもり返して加賀の尾山(金沢城)を攻めて圧倒したりしたことはあるが、とにかく謙信も負けたことはしばしばだったのだ。
15、 
信長・家康は、互いにあちらを助け、こちらを助けして勝利を重ねてはきたが、信長は包囲した城のかこみを解き、味方を捨てて退くなど、まぎれもなく引き際の醜態がたびたびである。しかも一向坊主を敵にしていて、家康がいなければならない状態である。その家康は小身な未熟者である。
16、 
また北国には輝虎ほどの大将はいない。
17、 
中国、九州には毛利元就にまさる大将はいない。日本国中にも右の四人にまさる武功高い大将は、今は大唐にさえおらぬというほどである。
18、 
ところが信玄は、手柄をたてるのに、若いときから他国の大将をたよって出馬を願い、連合して戦ったことは一度もない。
19、 
また包囲した城のかこみを解いて退いた事は一度もない。味方の城を一つとして敵に奪われたこともたい。甲州国内には城郭をかまえて用心することもなく、館はただの屋敷がまえですませてきた。
20、 
ある人が信玄公の御歌として言う。「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方讎(あだ)は敵なり
21、 
敵国では五十日にわたって作戦を行い、味方の領地には何者も侵入させず、各地を掠奪して廻り、小田原まで攻めこんだうえ、帰途に一戦を行って勝利を得ている。
22、 
去年の三方ケ原の合戦のおりも、信長・家康が申し合わせて、十四カ国を領有しているところに攻めこみ、二、三里近くの二俣城を攻略して勝利し、遠州三州の境の刑部に、十二月二十四日から正月七日までの十四日問滞在した。
23、 
この間、天下の主である信長からいろいろと和睦を申しいれてきたうえに、我が被官の秋山伯者守信友を信長の婿ということにし、それを口実として末子の御坊(という子を甲府にまでよこしてきた。が、信玄の方から破棄して、信長の居城、岐阜の六里近くまで焼き払って攻めた。
24、 
一万余の軍で信長が出陣してきたが、馬場美濃守(信春)が、千に足らぬ兵によって上道一里あまり追いつめたので、後をも見ず岐阜に逃げこんだので、岩村の城をこちらが攻めとった。
25、 
このように信玄の武勇というものは、人をたよることもなく、このたびも北条氏政が加勢に出るといってきたけれども、無用と申したのだ。武門の手柄は以上のようだ。
26、 
また、信玄はあしかけ五年以前からこの病気は重大なものと考えたため、判を書いた白紙を八百枚あまりここに用意してある、と仰せられ、御長櫃から取り出させて各共へお渡しになり、言われた。
27、 
諸方面から書状がきたならば、返信はこの紙でせよ。信玄が病気とはいえ、まだ存命と聞いたならば、我が甲斐を侵攻しようとする敵国はあるまい。そんなことはすこしも考えず、ひたすら領国をとられぬ用心だけをするであろう。
28、 
したがって、三年間は自分の死を隠して国の安全を保つように。

29、 
跡継ぎについては四郎勝頼の子息、信勝が十六歳になったら家督を譲る。
30、 
それまでは陣代として、四郎勝頼に申しつける。ただし勝頗に、武田累代の旗を持たせることはない。わが孫子の旗・将軍地蔵の旗・八幡大菩薩の旗、いずれもすべて持たせてはならぬ。太郎信勝が十六歳の家督をつぎ、初陳のおりには尊帥(孫子)の旗だけ残し、それ以外はすべて痔って出陣せよ。
31、 
勝頼は前のよう大文字の小旗を持ち、差物、法華経の母衣は典厩(信豊)に譲ること。
32、 
諏訪法性の冑は勝頼が斎用し、そののちに信勝に譲ること。
33、 
典厩信豊・穴山信君の、二人は、信玄が頼りにしていることゆえ、四郎を屋形のようにもり立てて万事につきとりおこなってもらいたい。
34、 勝頼の倅で七歳となった信勝を信玄のように重んじて、十六歳となったとき家督にすえてほしいのだ。
35、 
なお、自分の葬儀は無用である。遺体はいまから一二年後の亥年四月十二日に、諏訪湖へ甲冑を着せて沈めてもらいたい。
36、 
信玄の望みは天下に旗をたて号令することであった。が、このように死するからは、つまるところ都に上りながらも支配を固めることができぬままで果てるより、いっそいまのままならば、世の人々は、信玄は命を永らえれぼ、都に上ったであろうにと評価するだろうから、大慶というものである。
37、 
なんとしても、戦いの面で信長・家康のように幸運に恵まれたものたちと戦いを重ねたために、信玄は、いっそう命を縮めてLまったものと考える。
38、 
たとえていえば、矢勢が盛んな時は何でも射ぬくものだ。矢の勢いが盛りを過ぎた頃には浅く射るようになり、さらに過ぎれば白然に矢は地におちる。そのように人の連勢も長くよいことばかりは続かぬものだ。幸運な勢いが過ぎぬうちに盛んに戦勝して領土をひろげはじめたが、今天道から見放されようとしているのだ。
39、 
信玄が信長・家康との戦いで一対一だったならばこれほど早く命を縮めることもなかったのだが逆に、戦いでは信長・家康は二人がかりでも信玄に匹敵しないのだから、やはり(実力でなく天道が運命を決められたので、天が先に信玄を召すのだ。
40、 
その証拠に輝虎も三年の間に病死なされるはずだ。そうなれば信玄の次には輝虎が実力者であったのだから、信長を    踏みつけ破る者はいなくなると、仰せられる。
41、 
次に勝頼のとるべき戦略として、まず謙信輝虎とは和議を結ばれよ。謙信は男らしい武将であるから、若い四郎を苦しめるような行いはするまい。まして和議を結んで頼るといえば、決して終始約束を破ることはすまい。信玄は、大人気なくも謙信に頼るということを最後までいわなかったために、ついに和議を結ぶことがなかった。
42、 
勝頼は必ず謙信に敬意を表して頼りとするのがよい。謙信はそのように評してよい人物である。
43、 
次に、信長が侵攻してきた際には、難所に陣をはって持久戦に持ちこむこと。そうすれば、敵は大軍で、遠路の戦いであるから、五畿内、近江、伊勢の部隊は疲労し、無謀な戦いをいどむであろう。その機会に一撃を加えて破れば、相手は立直ることはできまい。
44、 
家康は信玄が死んだと聞けば、駿河にまで侵入してくるであろうから、駿河の国内に引き込んでから討ち取ることとせよ。小田原(北条氏政)は、強引に攻めて押しつぶすのに手間どることはないであろう。
45、 
氏政はきっと信玄が死んだと聞けば、必ずや人質をも捨てて裏切り、敵となるであろうからその覚悟をしておくように、と御一族や家老の大将に言い渡された。
46、 
弟の逍遥軒(信廉)は、今夜、甲府に使いに行くといって、心安い従者四人を連れ、出るふりをして、従者たちを土屋右衛門尉のところに預けよ。そして明日の早暁、輿に逍遥軒を乗せ、信玄公は御病気のため甲府に御帰陣になるといえば、我ら(信玄)と逍遥軒とを見分ける者はあるまい。永年見てきたところ信玄の顔を誰もがしかと見た者はないということになると、逍遥軒を見た者が必ずや信玄は生きていると思うのは確実である。
47、 
四郎は、くれぐれも好戦的にふるまうことがあってはならぬ。そして信長・家康の運の尽きることを待つことが肝要である。
48、 
運命を哀えさせるもの、それは身を飾り、ぜいたくにふけり、心おごること、この三つである。はじめに信玄が信長・家康の運の尽きるのを待てといったのは、勝頼への注意でもあるのだ。
49、 
その道理は、信長は信玄よりも十三歳若く、家康は二十一歳若く、謙信は九歳、氏政は十七歳若い。そのため彼らは、信玄の末路を待っていたのである。
50、 
一方勝頼は、謙信より十六歳、信長より十二歳、氏政より八歳、家康より四歳、いずれにもまして若いのであるから、彼らのような年長の考どもに負けぬようにし、これまでに信玄が取って渡した国々を危げなく持ちこたえることである。
51、 
そして、もしも敵どもが無碑な戦いを仕かけてきたならば、わが領国の中に引き入れ、必勝の決戦をいどむことだ。
52、 
そのときに、信玄が使ってきた大身、小身、下々の者までが一体となって奮闘するならば、信長・家康・氏政の三人が連合してこようとも、こちらの勝利は疑いあるまい。
53、 
輝虎(謙信)については、他と共謀して四郎を苦しめることはあるまい。武勇においては信玄が死んだのちは、謙信である。
54、 
天下を手にした信長と、武勇日本一の謙信との運命、この両人の運が尽きるのを待ち受けよ。
55、 
万事について思慮判断、将来への見とおしは、信玄の十倍も心するように、と仰せられる。ただし、敵がそのほうをあなどっていどんできたならば、甲斐の領内まで引き入れ、耐えぬいたうえで合戦をとげるならば、大勝利を得ることができよう。決して軽率な戦さはしてはならぬ。と、馬場美濃守・内藤修理・山県昌景にくわしく御指示なされた。
56、 
その次に信玄が生きている間は、氏康父子も謙信も信長、家康もみな国を取られぬようにと用心をしていたにもかかわらず、北条は深沢、足柄地方を、家康は二俣、三河の宮崎・野田、信長は岩村・堪の大寺・瀬戸・恵那までを信玄に取られている。
57、 
謙信の領地の越後だけは、こちらに奪い取ることはなかった。高坂弾正の部隊だけの力で越後に侵入し、謙信の居城春日山から東道六十里のところまで入って放火、掠奪を働き、女子供を奪って無事に帰還したのであるから、我ら信玄とかたを並べるというわけにはいくまい。
58、 
信玄病中とはいえ、生きている問は、わが領国に手出しをする者はおらぬはずである。三年問は深く慎め、といわれて御目を閉じられた。
59、 
また山県三郎兵衛を呼び、「明日はそのほうが旗を瀬田に旗を立てよ」、と仰せられたのは、御心が乱れたためであろう。しかし、しばらくして目を開かれて仰せられる。「大底還他肌骨好不。塗紅粉白風流』と遺作の詩句を残され、惜しいことに、誠に惜しいことに御歳五十三歳にして、朝の露と消えられたのである。
60、 
御家中各右、御遺言のとおりに取り計らったが、家老衆が相談の上遺体を諏訪湖にお沈めすることだけは取りやめることになった。
61、
三年後の四月十二日、長篠合戦の一月前に、七仏による御葬を営んだ。
62、
信玄公御一代の御武勇、御勝利のほどは、三十八年間、一度も敵に背を見せられたことはなかったのである。以上

《註》「大底還他肌骨好不。塗紅粉白風流」
----
不朽の本質的なすこやかな人カの全身に伝えよう。それは少しも飾気がなく、自然に風流なのだから----
  ◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。

《註、番号は便宜的につけたもの》






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最終更新日  2019年03月03日 20時27分08秒
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