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●武田軍の兵糧
兵糠は軍役衆の自弁(?) <例>永禄8年、信玄は上野箕輸城を攻略、付近を占領、前年の秋が豊作で、箕輸・松井田をはじめ、方々の小さ在要害城に兵糧がたくさんあった。それを武田軍は三割の利息をつけて将士に貸し与えた。年末に決算があり、信州の者も甲州の者も、 その筋の代官衆へ元利ともに返済したという。 <解説>占領地で食料を与えられても、それは支給ではなく貸与であり、しかも3ヵ月(箕輸城落城は9月29日に3割の利息までとられたわけである。 <例>武田勝頼が天正7年8月(推定)。信濃更級郡綱島兵部助宛書状 今年上州へ出陣する。在陣は20日を過ぎることはないから、特別(軍役人数以上の)、人員をつれてくれば忠節である。陣中で人員を調査し、定数以上の人員に対しては、兵捜等を支給するからそのつもりでいるように云々 <解説>」 ・在陣20日間の兵糧は当然綱島が負担すべき尼が、軍役状に定められた以上の人員をつれて来た場合は、その増加分は武田氏から兵糠を支給する。 ・ このような兵糠自弁(自賄)は武田氏に限らず、鎌倉時代~戦国時代まで多用方法。 <例>大坂冬の陣・夏の陣において徳川氏は全軍30万人に兵糠を支給。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年03月03日 20時28分50秒
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