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【信玄の死】
4月12日 信濃まで帰還、伊那の駒場にて病没する。享年五十三歳。死の床にて三年秘喪、領内の整備、戦力の充実などを遺言する〔甲陽軍鑑・武家事紀・天正玄公仏事法話〕4月12日 これより先、信玄の病い篤く、兵を引いて甲斐に帰る途中、伊那郡駒場の地で没する、五三歳。臨終に三年の秘喪・民力の休養・領内の整備・戦力の充実を遺言する(武家事紀) 4月23日 勝頼、内藤昌豊に血判起請文を与え、懇切公正に遇することを約す〔京都大学文学部文書〕 4月25日 飛騨の将河上富信、上杉謙信の重臣河田長親に、信玄死去の風聞を報ずる〔上杉文書〕 6月21日 去年遠江二俣城攻めに,援軍北条氏政の将大藤式部丞が戦死,この日勝頓,式部丞の子与七に信玄の名の下に感状を与える〔東京都大藤実家文書〕 7月3日 小山田信茂,谷村長生寺に祖先以来寄進の寺領,都合41貫675文の書立を与える〔長生寺文書〕 8月10日 勝頼、黒駒の称願寺に禁制五条を出す〔称願寺文書〕 8月21日 越前一乗谷、織田勢に攻められて陥り、朝倉義景自刃する。四一歳(武徳編年集成) 8月27日 勝頼,青柳の番匠善七郎の普請役を免許<中込政八家文書> 8月 勝頼に富士山御師外河坊に分国中檀那回りに,鞍馬・荷馬各1疋,人足5人の関役を免許〔富士浅間社文書〕 9月1日 浅井長政没(29)〔高野山持明院浅井長政画像賛〕 9月2日 これより先勝頼,本願寺に対し父信玄の隠居と勝頓の家督相続を披露 この日,本願寺より信玄に対する隠居祝,勝頓に対する家督相続祝いを贈る<顕如上人書札案留> この日,勝頼が重服の身で館中徘徊せるを謝し,武運長久,分国昇平を美和神社に祈る〔二宮美和神社文書〕 9月3日 勝頼,島上条郷(敷島町)石原孫三郎・羽中田善五郎外3士,川上郷(甲西町)北村三郎右衛門尉らの御裏様への忠勤を宜し郷次普請を免許〔石原初太郎家文書・小倉武家文書〕 9月5日 勝頼、千塚郷光蔵寺の寺領を信玄時代の通り法泉寺向陽軒に安堵〔法泉寺文書〕 9月8日 徳川家康、三河長篠城を陥れ城将室賀信俊は鳳来寺に弄る〔当代記〕 9月1日 近江小谷城陥り、浅井久政・長政父子白刃。長政二九歳(高野山持明院浅井長政画像賛) 9月21日 これより先、勝頼が本願寺に信玄の隠居と勝頼の家督相続を披露する。 この日、本願寺より信玄に対してほ隠居祝い、勝頼に対しては家督相続祝いを届ける(顕如上人書札案控) 9月23日 勝頼が跡部勝資の寄子塩屋五郎右衛門尉に大鳥居・小石和・河内郷の内都合53貫文の知行を与える〔真壁文書〕10月9日 勝頼,阿部右衛門尉に.甲州篠原・信州高遠において都合60貫文を与える〔阿部宗仲家文書〕 10月14日 勝頼,塩山向岳寺に禁制を出し,先祖武田信成以来の寺境絵図に証判を加える〔塩〕 10月21日 勝頼,聖道様衆下条讃岐守に,聖道(武田信親・海野二郎)様知行所河原部郷(韮崎市)より年貢籾を滞りなく甲府に.送るよう命ずる〔加賀美勘四郎家文書〕 勝頼,新出仕の駿河の士林小兵衛尉に本領瀬名の内桜田名34貫文を安堵〔下河東林彦六家文書〕 11月3日 勝頼,去る9月長篠篭城戦での伊藤忠右衛門尉の殊勲を賞して感状を与える〔今泉文書〕 11月 勝頼,遠江に出陣,二俣・乾・光明の諸属城を巡検,諏訪原に築城して帰国〔国志〕 12月17日 勝頼,駿河大宮の惣社人衆に命じ,奉行鷹野徳繁と協議,当領主らに祭礼執行の米銭を催促させる〔宮崎文書〕 12月23日 勝頼,松尾信是の老母の隠居分塚原10貫文を安堵〔甲斐西村文書〕 12月24日 勝頼,駿鰻岡宮神領の内15貫500文を富士御室浅間社へ寄進〔富士御室浅間柱文書〕 勝頼,大野寺に寺領を安堵,御科人の息災延命を祈念〔福光園寺文書〕
天正2年(1574) この年 信虎、信玄の死を聞き三十三年目にして急遽、信州高遠まで帰る。宿舎は縁者禰津甚平の家であった〔甲陽軍鑑〕 1月9日 上杉謙信、西上野の経略を思い徳川家康・織田信長に甲斐・信濃への出兵を要請〔榊原家文書〕 1月11日 勝頼,中郡筋山神郷(田富町)の甲戌より丙子間の諸普請役を免許し,釜無川水防に精励させる〔三井幸大家文書〕 1月27日 勝頼、東美濃岩村口に出陣し岩村城付城十八城を陥れ、明知城にも迫り、二月七日これを抜く。信長はなすすべなく二十四日岐阜に帰る〔信長公記〕 2月25日 勝頼,吉田御師衆に先規通り社務を安堵,御師肝煎大友里右近丞が奉行市川宮内助に請書を出〔富士浅間社文書〕 3月5日 武田信虎、信濃高遠で病没(八十一)。法号大泉寺殿春雲存康庵主、墓所大泉寺〔高野山引導院過去帳〕 3月7日 勝頼、信虎の葬礼に信濃竜雲寺北高全祝の参府を促す〔竜雲寺文書〕 3月28日 勝頼,一蓮寺・大野寺に禁制を出し,桜井逍遥院に寺領を安堵〔一蓮寺・福光画寺・逍遥院各寺院文書〕 4月12日 小山田信茂,吉田の御師猿里石見守の諸役を免許〔富士浅同社御師三浦家文書〕 5月12日 勝頼,遠征高天神拡を囲む〔飽満寺文書〕 5月19日 真田幸隆没〔高野山蓮華定院過去帳〕 5月19日 この月武田題遍軒信網、父武田信虎の肖像を描き、春国が著賛〔甲府市大泉寺蔵〕 6月17日 勝頼、高天神城を落とす〔信長公記〕 6月29日 織田信長,上杉謙信に書を送り,今秋信濃・甲斐に攻め入り,勝領を挾み討とうと謀る〔上杉文書〕 7月30日 勝頼,駿河久能寺に禁制を出す〔久能寺文書〕 8月24日. 勝頼,栗原開桃寺(海鳥寺)に禁制を出し,寺領を安堵〔海鳥寺文書〕 9月7日 勝頼,浜松を襲おうとして天竜川に至り,ついで軍をかえす〔寛永諸家系図伝〕 9月9日 勝頼、信濃金掘衆に駿河榛原郡で所領を与えることを約束〔友野文書〕 勝頼、駿府臨済寺領を安堵〔臨済寺文書〕 11月30日 勝頼,駿府の松木与左衛門尉に.月に馬二疋の諸荷役と、船一艘の役・屋敷1軒の請役を安堵〔矢入文書〕 閏11月24日 勝頼、甲州秤座吉川守随・鈴木清三郎・同与治郎・長坂善七郎らに,町棚一軒あて商売の諸役を免許〔守随文書〕 12月10日 勝頼,木曽義昌に美濃 平定の後,所領1000貫を与えることを約束〔信濃古屋文書〕 12月23日 勝頼、池田東市佑に分国諸商1月馬1疋・棟別1軒免許,田地検使停止・郷次の普請を免許し,軍役を励ます〔池田甚一家文書〕 また金山衆田辺四郎左衛門尉に対し先代に与えた条々を安堵〔田辺佐苗家文書〕 12月25日 勝頼、神津善兵衛尉の信州における隠田の改増分を正確に申告したことを賞し,海野郷の内15貫文を与える〔成沢村(牧丘町)共有文書〕 12月28日 勝頼,牛山五郎次郎の御細工の奉公を賞し,郷次の普請役を免許<牛山家文書>
天正三年(1575) 1月23日 この月9日に武田信虎の側室酉昌院夫人没,この日勝頼が夫人(通称御酉様)の菩提所西昌院を建て,若神子郷の返田30俵を 寄せる〔西昌院文書〕 1月28日 勝頼,西山慈照寺の家5軒の棟別役を免許〔慈照寺文書〕 2月13日 これより先,信玄が駿州久能山の要害に築城しようとし,山頂の久能寺に替地として矢部の妙善寺を与える, この日勝頼が久能寺に寺領を安堵〔旧久能寺文書〕 勝頼,大石畔(河口湖町)の渡辺越前守に河口湖の白鳥を捕獲進上させる〔渡辺塞綱家文書〕 2月14日 勝頼,初鹿野伝右衛門に国玉郷(甲府市)ほか134貫300文を重恩として与える〔初鹿野伝右衛門文書〕 勝頼、志麻庄(甲府市)塩沢寺に棟別以下門前3軒一切免許し地蔵堂の保護に当たらせる〔塩沢寺文書〕 3月1日 勝頼,大八田郷(長坂町)清光寺・片颪郷清泰寺に禁制を出す〔清光寺文書・清春寺文書〕 3月24日 勝頼、西上野先方衆安中景繁に諏訪郡上原城へ参陣を命ずる〔中萩原慈雲寺文書〕 4月1日 勝頼、石和郷(石和町)の上原淡路守に上州鹿屋城在城手当として,石和郷広瀬の住家2軒分の棟別役を免許〔今田滝蔵家文書> 4月12日 勝頼、恵林寺と武田館において信玄の三年寒明けの法造を行なう。快川七仏事の大法要に返魂香を焚く〔甲陽軍鑑〕 4月13日 勝頼,上野箕輪在城の内藤昌豊に三河長篠城攻囲作戦への出陣を催促〔東京都柏木易之家文書〕 4月21日 勝頼、三河に入り奥平貞昌を長篠城に攻める〔古文書纂〕 5月6日 勝頼は御代香りで陣中に、新軍法を習熟のための十三力条を公布する〔正安寺文書〕 5月18日 徳川家康,長篠城西方設楽原高松山に,織田信長は極楽寺山に布陣,長篠の後詰めをする,勝頼は医王寺山の本陣より寒狭川を渡ってこれと対陣〔信〕 5月20日 勝頼,長篠城攻囲,織田・徳川両軍の設楽原布陣状況を駿遠守備の釣閑斎・三浦右馬助に報ずる〔桜井義令(白州町横手)家文書〕
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最終更新日
2019年03月03日 20時44分42秒
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