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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年03月03日
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武田滅亡〕

3月11日

 徳川家康・穴山信君、甲斐国甲府の織田信忠を訪問。

 武田勝頼・武田信勝、天目山の戦で織田軍に敗北。田野に於いて一族・郎党と共に自刃。長坂光堅らも殉ず。

 武田勝頼、甲斐国天目山にて敗北・自刃。〔理慶尼記〕

 信濃国高遠城以下を織田信忠自身が攻略したこと、仁科盛信・武田信豊が討死にしたことを知らせる。〔兼見卿記〕

3月11日

 勝頼、小山田信茂の叛を聞く。天目山の途中田野において織田方の挟撃を受け,北条夫人・信勝と共に自刃,勝頼(37)・夫人・信勝,従う者,土屋昌恒・小宮山内膳・安倍勝宝・小原忠継・同忠国・麟岳長老らを始め士46人,侍婢女23人〔国志〕

 

天童山景徳院 主従牌子死者名

 

景徳院殿頼山勝公大居士  武田勝頼   三十七歳

北条院殿模安妙相大禅定尼 同 夫人   十九歳

法雲院殿甲巌勝信大居士  武田信勝   十六歳

       

麟岳大和尚      円首(公)座禅師

忠屋存孝       土屋宗蔵昌恒

慶室(宝)道賀    安部加賀守貞村

           (安部加賀守勝宝・かつとみ)

 ※(天正四年四月、信玄の安骨葬儀にあたり、その寿像と遺品を高野山に登り、信玄の菩捷を弔う)

※勝宝の子、掃部介貞直・右衛門尉道忠は仁科五郎盛信の配下で、高遠城で討ち死にする

跡叟道張       跡部尾張守

金渓道助       金丸助六郎昌義

洞谷宗谷(岩泉)   小山田掃部介義次

久桂芳昌       小山田於児

阿白道総       河村下総守

常叟道温       温井常陸介(小林退官とも)

忠叟道節       小宮山内膳友暗

中源実宝       小山田平左衛門

明鑒(監)道白    小山田弥介(助)

秋峯道純       秋山紀伊守光綱

水村山谷       秋山杢介

空岸東海       小原下総守忠国

月窓江海       岩下総六郎

堅英了雄(莫可稚)  秋山源三郎景氏

観応月心       秋山民部光明

円応寒光       多田久蔵(三郎)

鉄岩恵船       小原丹後守忠次(小原道丹とも)

西安道伊       安西伊賀守

実山金性       小原源太左衛門

一峯幕営       小原下野守

神(林)道林(格)  神林清十郎

賀(加)屋道養(喜) 有賀善左(右)衛門

天真了然       穴沢次太夫

松峯道鶴       貫井新蔵

傑伝宗英       秋山宗九郎

滑寒霜白       秋山宮内

即応浄心       内藤久蔵

虚屋道幽       山野居源蔵

清道資(次)     小原清二(次)郎

源与道屋       土屋源蔵

本光道如       薬袋小助

侍婢、戒名十六名

妙法禅定尼 妙蓮禅定尼 妙筆禅定尼 妙観禅定尼 妙世禅定尼 妙音禅定尼 妙経禅定尼 妙菩禅定尼

妙薩禅定尼 妙普禅定尼 妙黄禅定尼 弘一禅定尼 妙門禅定尼 妙十禅定尼 妙品禅定尼 妙五禅定尼

 

離反の家臣(甲陽軍鑑品第五七)

長坂釣閑、昨日鶴瀬で逃亡

跡部大炊助も同じ日逃亡

秋山摂津守は十日以前に逃亡

『信長公記』

◇織田信長

三月五日

甲州に向かう

三月六日

岐阜にて、仁科盛信の首実検

三月十四日

下伊那の浪合

◇織田信忠

高遠城を陥し

三月七日

甲府入り、禁制を出す

塔岩の一条右衛門大夫信龍の屋敷を本陣

続いて尊体寺、善光寺を本陣とする。

◇徳川家康

三月十日

市川に着陣

三月十一日

甲府に至り、信忠軍に合した。

信忠及び家康は、甲府において勝頼の首に対面(翌日?)

◇信長

勝頼の首は直ちに信長の本営に送られる

三月十四日

浪合において勝頼の首実検

三月十九日

上諏訪にいたった。

◇家康

上諏訪まで信長を出迎えた

◇信長

三月二十二日

武田勝頼に謀叛した穴山梅雪、木曽義昌、小笠原信嶺らも、信長に拝謁

三月二十九日

論功行賞

梅雪は河内の旧領安堵

木曽義昌は木曽の旧領と安曇、筑摩の二郡を安堵

四月二日

信長は上諏訪を発って甲斐の府中に入り、七日間滞在

四月十日

甲府を発って、中道往還から駿河に向かう

◆甲陽軍鑑品第五八

信長甲府へ御着あり春中より計策の廻文越給ふ。

武田の家の侍大将衆、皆御礼を申せと有てふれらるゝ。

其二月末、三月始時分に、むたと信長父子の文をこし給ふに、

或は甲州一国をくれべき、信濃半国をくれ候はん、あるいは駿河をくれべきをンどとの書状を誠に思ひ、勝頼公卿親類衆をはじめ、皆引籠居給ふが、此ふれを実と思ひ、御礼に罷出、

武田方の出頭人の跡部大炊、諏訪にて殺さるゝ。

逍遥は府中立石にて殺さるゝ。

小山田兵衛、武田左衛門佐、小山田八左衛門、小菅五郎兵衛、此四人は甲府善光寺にて殺さるゝ。

一条殿は甲州市川にて、家康に仰せられ殺さるゝ。

出頭人秋山内記は高遠にて殺さるゝ。

長坂長閑父子は、一条殿御館にて殺さるゝ。

典廟父子は小室にて殺さるゝ。

大熊も伊奈にて殺さるゝ。(中略)

高坂源五郎も川中島にて殺さるゝ。

山県源四郎も殺さるゝ。

駿河先方衆も、勝頼公御ためを一筋に存たるをば成敗なり。

甲信駿河侍大将いずれも家老衆大形殺さるゝ。

ただし信濃に真田、あしだ、上野に小幡、和田、内藤、其外上州衆を皆助けて滝川寄騎に付、三年の内に北条氏政、同子息氏直をたやすべし。若し手間どるにおいては、真田、小幡をはじめ、各に北条家へ先をさせんためにとて、如件

 

◆武田家誅殺された人々〔甲州安見記〕

甲府立石

 武田道連軒信綱 蕃山十郎信貞 武田上野介信龍

甲州市川

 一条右衛門大夫信就

府中善光寺

 小山田兵右衛尉信茂信茂子八歳 武田左衛門信光詣鮒子

小山田八左衛門行村 小菅五郎兵衛 朝比奈兵衛大夫信直(駿河守の子)

甲府一条館

 長坂釣閑斎 同源五郎(釣閑斎の子)

信州諏訪

 跡部大炊助勝資 諏訪越中守昌豊 諏訪伊豆(越中の子)

古府中

 曽根下野人道 同河内守(入道の子) 同掃部介(入道次男) 秋山万可斎

 秋山摂津守(万可斎の子) 跡部越中守昌豊 市川十郎左衛門

信州小室(三日十三日)

武田左馬助信豊 同次郎(信豊の子)

信州高遠

 秋山内記(摂津守の子)

信州川中島

 高坂源五郎(弾正の次男)

信州伊那

 山県源四郎(三郎兵衛の子) 大熊備前守朝秀

甲州郡内

 今川左近太夫

武州

 小山田佐渡守 加藤丹後守

駿州蒲原

 朝此奈駿河守氏秀 今福丹後守昌和(自殺) 今福善十郎(丹後の子)

甲州小尾

 今福刑部左衛門

甲州南山

 今井肥前 今福惣市

国未詳

 今福筑前守成就 小山田左兵衛義国 岩手右衛門 朝比奈摂津守秀重 清野美作守重定 小山田出羽守

勝頼最期

武州

上野原の加藤丹後守信景一族は、北条軍と戦って追撃され、武州箱根ヶ崎で戦死

徳川帰属

八九五人もの大量の甲州武士団が、徳川家康へ帰属した。

  天正十年八月、徳川と北条の合戦に、家康に帰属した甲州武士団は、武田氏滅亡時には、無惨に勝頼を見捨てて、山の中に逃げ隠れてしまった武士たちは、宣撫されたとはいえ、運気の強い家康の前に、必死になって道路をつくり、橋を架け、武川衆など、信玄時代に訓練された砦の夜襲戦に、捨て身になって働いて、徳川軍を勝利に導いた。

そして結果的には、家康を死地から救っているのである。寺社の僧侶も神主も同様であった。

この箇所参考資料〔上野晴朗氏著「落日の武将 武田勝頼」〕






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最終更新日  2019年03月03日 21時20分05秒
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