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2019年03月03日
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武田家のその後『太陽』「武田信玄」より(一部加筆)

天正10年(1582)3月11日、甲斐国山梨都田野村(東山梨郡大和村田野)の山中での、武田勝頼・信勝父子の自匁で甲斐武田氏は滅亡した。

 

【梅雪の嫡男勝千代を武田の後継者】

 甲斐・河内領主の穴山梅雪の母、南松院は信玄の姉、正室は信玄の娘。梅雪の嫡男勝千代を武田の後継者として家康、信長に降り、武田の再興を謀ったが天正10年6月2日、京都府下の田辺町で野盗に襲われて客死。勝千代も16歳で天析した。

 

【信玄の直系で生き残ったのは二男龍芳(全盲)の嫡男信道】

 信玄の直系で生き残ったのは二男龍芳(全盲)の嫡男信道、出家して顕了道快と信玄の甥にあたる川窪信俊、外孫で敵味方に分かれてしまった相模の北条民政と信玄の長女黄梅院の間に生まれた長男氏直、2男氏一房らがいるが、天正18年(1590)四月、豊臣秀吉の小田原攻めで後北条一族は滅亡した。

 信玄の血縁で現代まで生き永らえたのは竜芳の直系だけで第一五代武田昌信氏(東京在住)がその子孫である。竜芳の子孫がたどった運命も波乱に満ちていた。生まれながらの盲人であった竜芳は、髪をたくわえず、躑躅ケ崎の館北の聖道小路に家を建ててもらい、半僧半俗の暮らしをしでいた。本名は信親、僧名を竜芳と呼び、地名をとって「お聖道さま」とも呼ばれていた。信玄在世の永禄のころ、信州の名門・海野家を継ぎ、海野次郎と名乗った。天正10年3月11日、武田勝頼父子の自匁を知り、甲府の南はずれの入明寺(住吉本町)で自害した。42歳だった。

 当時、九歳(天正二年生)だった遺児信通は、甲府長延寺の実了師慶住持の養子になり、祖母三条夫人の義弟本願寺顕如法主から〝顕″の一字を賜わり、出家して顕了道快の僧名で一時、信州に身を匿したが、信長が死に、実了和尚の病死後、甲斐に入国した家康に呼び戻されて、長延寺の二世住持となった。慶長8年(1603)三月、甲府城築城のため長延寺は、いまの甲府市相生三丁目の替地に移して堂宇を落慶し、顕了は浄土真宗東本願寺派甲府別院に永住した。

 

【信正と大久保長安】

 顕了に深く帰依したのは武田の旧臣大久保石見守長安である。堂宇建設のさいも多額な資金を寄進、甲斐に入国した長安は、長延寺を訪ね、顕了を励ましている。長安と顕了との親交が幕府に知れて、長安死後の元和元年(1615)3月、公金横領の冤罪を着せられて顕了とその嫡男の信正(教了)父子は、伊豆大島に遠島を申し渡された。遠沈には顕了の妻おままの同行を許されている。長延寺は顕了父子逮捕の直後、廃寺になり、東本願寺の教如法主の嘆願で存続を許され、化竜山光沢寺と改め、朱印20石を与えられた。顕了一族の大島での暮らしは質素だったが、平和な日々であった。顕了を慕い、9人の武田の旧臣が島へ渡ったと伝えられる。

 遠島28年目の寛永20年(1643)3月4日、顕了は70歳で病没。さらに10年の歳月が流れて顕了夫人が承応2年(1653)去月2日、73歳で他界した。

 三代将軍家光の13回忌の寛文3年(1663)、64歳の教了は、四九年ぶりにご赦免になり、8月11日、江戸に帰った。ご赦免になった教了とその家族は、上野寛永寺の天海上人に仕え、教了は76歳で入寂した。その子孫が江戸に永住し、現代、信玄から一五代当主の武田昌信氏に引き継がれている。

 

【信玄の異母弟武田兵庫助信実の嫡男川窪与左衛門尉信俊・信雄・信貞】

 信玄の異母弟武田兵庫助信実の嫡男川窪与左衛門尉信俊は、家康の旧武田家臣の採用にともない、知勇ともにすぐれていると高く評価され、禄高三百八十二貫八百分と、左衛門尉の官途、甲斐八代部下二千百十俵の領地を与えられた。

 天正19年(1590)1月、信俊は武州金窪琴1千石の領主に栄進した。いまの埼玉県児玉郡上里町の周辺である。信俊は着任後、亡父信実の菩提寺として比企郡横田村に輪禅寺を創建、母漆戸夫人を中興開祖として母の法名に因んで崇栄山陽雲寺として菩提を弔った。

 信俊は家康の仲立ちで三人目の夫人として公卿の正親町三条公伸の息女を妻に迎えた。慶長6年(1601)に嫡男信雄が生まれた。寛永3年(1639)2月14日、信俊は家康・秀忠・家光の三代に仕えて76歳で没した。

 遺児、信雄も名門武田の裔に恥じない人物であった。のちに従五位越前守となり、加増を含めて二千七百石の知行を与えられた。信雄の子信貞は四代将軍家綱に仕え、家綱の命令で川窪の姓を武田に復し、五千七百十石の知行取りとなった。その後の子孫も一族縁者ともに扶け合って苦難を乗り越え、明治の夜明けを迎えた。






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最終更新日  2019年03月03日 21時35分39秒
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