清和源氏の家系 石和信光《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
石和信光は、この頃から武田五郎と称するようになった。信光は源平合戦の真っ最中の寿永二年(1183)初頭のころ、東国を制覇した頼朝と北陸の覇者木曾義仲とが、いかなる関係を結ぼうとするかという時に、信光が木曾義仲の宿館に使者を送り我に最愛の娘あり、木曾殿が嫡子清水冠者義高殿を迎えんと欲す。政略結婚による同盟締結の申し入れであった。しかし木曾義仲は一言にして申し入れをはねつけた。信光は遺憾に感じ、直ちに鎌倉に向かい、木曾義仲の讒言した。特に「平氏と一つになって頼朝を滅ぼす梟悪の企てなり」の言が頼朝を動かして、軍を碓氷峠に進めた。この時は義仲は嫡男義高を人質に出して事なきを得たという。
寿永三年(1184)頼朝は いさわ殿、ことにいとおしく申させ給うべく候。 と書状にしたためた。この時信光は三十九歳だった。信光の行動派北条氏代々の諸陰謀と微妙に交錯し、数多くの謎の渦となっている。建久三年(1230)の阿野全成事件、健保三年(1213)の和田氏の乱、承久元年(1219)の三代将軍実朝の暗殺事件などに信光は謎の行動をとっていたのである。三代実朝が甥の公暁に暗殺された直後に、真っ先に駆けつけた信光は、逃げる公暁を見失ってしまった。
信光の墓は北条時政の創建した伊豆願成就院の裏手には信光ゆかりの信光寺がある。
その後、これから三百年の間、石和御厨が武田党全体の本拠地となる。
今回、奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』から甲斐源氏の動向を見てみた。甲斐源氏の祖と仰がれている、新羅三郎義光の濫行については、今まで甲斐ではタブ-視されていた。市町村誌などにも、何故か避けて書されている場合が多い。如何に群雄割拠の時代とは云え、甲斐源氏の祖とするには酷い所業である。新羅三郎義光が確かな史料に基づいての甲斐の居住地及び去住年は不詳である。
その息子で甲斐に配流された義清にしても、常陸を追い出されて来た人物である。最初に居住したのは現在の市川である。その後逸見に居住したというのは「逸見」と地名がもたらしたもので、清光さえも寺院や神社の由緒書はあっても、居住地は史料からは見えない。志町村誌も著者の主観が先行している場合が多く、歴史の史実では無い。濫行、兄弟や親子でも裏切りや謀殺など、血塗られた甲斐源氏の歴史を今後は正しく伝えて行くことが歴史に携わる人々の責任である。こうした事は武田三代の信虎・信玄・勝頼にしても同然である。いくら神聖化して見ても、山梨県は兎も角も、長野県や信玄が侵略、殺戮を繰り返した地方に於いては、「憎くつき信玄」である。人を石垣にして、人々を城に見立て、侵略するほどに死体の山を築いた戦国武将たちは、子供の眼にどんな風に映っているのであろうか。