小野泉(おのいずみ)北杜市明野町
『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
1830(文政13)6-生~1884(明治17).9.23歿。
甲斐国逸見筋子浅尾新田(山梨県北杜市明野町)出身、小野通仙の子で初名小僊、のちに泉と改名。蘭方医者、12歳のとき私塾松声望西野学校に学び、江戸で戸塚静海(シーボルトの門人)に学ぶ。さらに京都の医師でもあり蘭学者広瀬元恭に師事し、新医学を修め、帰細後種痘館を建て牛痘種法を村人に行ない、北巨摩郡医会改善に尽力、明治維新後県立病院の設立を主唱した。また医業のかたわら、村の子弟を教育し1879(明治12)年、甲府に私塾「三同社」を開設、1872(明治5)年、山梨県庁学務課に奉職して「甲斐国志」の校訂出版に功績があり、内藤伝右衛門とともにわが国最初の婦人新聞ともいわれる「をとめ新聞」を発行、その他小学校教科書の編纂「学門のもとすえ」「女大学」「山梨県地誌略」などを著作、編集、出版をし、医学はもとより、教育にも功績を残した。浅尾新田に記念碑がある。<斉木高明氏著>