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北杜市の先人 武川町 斉木天明(逸造) 憲兵隊によばれた甲府市長、青木天民(『明治・大正・昭和の郷土史』より) 斉木逸造は明治四年(一入七l)、北巨摩郡武川村の医師斉木良斎の長男として生れた。 少壮時代から政治運動にかかわり、 明治三二年 「甲斐新聞」をおこし、 明治三八年 甲府市会議員、 明治四〇年 県会議員 となって、再選されること五回、その間県会・市会議長を歴任し、 昭和九年(一九三四)甲府市長となった。議員在職四〇年であった。 斉木は清貧に甘んじ、選挙費用にもこと欠きながら、その人徳によって「常勝将軍」といわれた。「天民」の号は、億兆の民に号をとった中江兆民の「自由の民は天の民、天の民は不罵独立の民なり」からとった。 甲府市長(第一五代)に就任後は、相川・里垣・国母・相川の四地区を市へ合併することに尽力し、昭和十二年八月一〇日合併が成立して甲府の人口は八万二〇〇〇人からいっきょに一〇万三〇〇〇人に増加した。 その後、一三年には甲府博覧会を計画して、全国に甲府市を宣伝しょうとした。そのため市内に大商工会館を覧会のものを入手し、甲府舞鶴公園を第一会場に、遊亀公園を第二会場に予定して、移築をすすめ、博覧会への出品契約にまでこぎつけた。 ところが日中戦争の進展と、その勝利に酔った軍部は、国内体制を戦力一本に集中する時節であると横車を押し、博覧会の中止を要求し、ついに実施不可能となってしまった。 やがて戦時色が強まり、挙国一致が叫ばれ、上意下達が通常の形となって、軍部の独裁をおおうためにも「滅私奉公」が強調されていった。政党は統一・整理されて大政翼賛会(前項)にまとめられ、政党政治は壊滅した。 斎木はこれにあきたらず、軍部のごきげんとり政党に反対し、国会選挙に反大政翼賛会の立場から出馬しょうとしたが干渉をうけ、立候補をはばまれている。新聞に寄稿した立侯補の弁が災いして、立候補前に憲兵分隊に出頭させられ訊問をうけている。 斉木は晩年は甲府市の茅屋(あばらや)に孤独の日々を送り、読書三昧にふけった。私利私欲に悟淡としてみずからの安楽をもとめなかった斉木を愛する市民たちは、選挙のたびに「落したら甲府市民の名折れだぞ」を合言葉に支持をつづけた。このよう億市民たちの篤志につつまれて斉木は、昭和三〇年l一月一日逝去した。八四歳であった。甲府市葬をもって、市民はこの死を悼んだのであった。三月、甲府市議会は斉木に名誉市民の称号を贈った。第一号であった。(清水)
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最終更新日
2019年03月04日 15時42分12秒
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