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2019年03月04日
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北杜市の先人 小宮山貞清 高根町
『文学と歴史』第8号 甲州の和算家 弦間耕一氏著 昭和60年刊
 一部加筆 
 
 小宮山貞清は、高根町村山西割にある。小宮山昌照寺に生まれた。
 小宮山昌照寺を甲斐国志でみると次のようにある。
 
小宮山昌照寺、村山西割村、土真宗西本願寺ノ末除地一段四歩寺記ニ云フ、昔ハ中郡中小河原村ニアリ後此ニ移ル、初ハ護念山証誠寺或ハ西川山トモ云フ、宝暦二年(1752)今ノ名ニ改ム、小宮山氏・山下氏ノ古墓アリ、人物ノ部ニ二詳カナリ
 
 国志にあるように、昌照寺は昔、中小河原村にあって、証誠寺といった。証誠寺は、小宮山氏が開基した寺で、小宮山氏の転居に伴って村山西割に、移動した。
 小宮山氏が村山西割に任すようになった理由は、小河原村が水害のため一村、転出を余儀なくされた。それは、四郎左衛門忠道の時であった。忠道が村山西割を永住の地にえらんだのは、妻が村山の大柴道林の娘であったことによるという。
 大柴道林の通称は彦兵衛で、村山一帯に勢力を持ち、雨宝山泉竜寺の中興開基である。
 小宮山氏は、逸見の支流で、信州小宮山に任したので、小宮山号したという。
この小宮山氏の一族に、武田勝頼に忠誠を尽した小宮山内膳がいる。甲斐国志に「勝頼父子敗走シテ……近臣坂クト聞ク内膳幽所ヨリ起チテ杖孝則ヲ乱戦ノ中ニ到リテ終ニ殉死セリ……」
とある。
 内膳は勝頼の不興をかい、閉門を命ぜられていたが、無理解の勝頼を恨みもしないで、駒飼に馳せ参じて、殉死した。武田軍団が瓦解し人心が離反するなかでの、内膳の動きだけに多くの人から賛美された。
 内膳の弟に当たる拈橋(ねんきょう)は、中山広厳院の住職であったが田野の戦場(勝頼の最期)に到り、殉死の士女の弔祭を行っている。景徳院建立に当って、姑橋は徳川家康の命により、景徳院一世の住持となる。
小宮山貞清の略系図
民部少輔安信-(中略)-備前守昌清-土佐守昌照-(中略)―専教法師-(中略)-貞清
 系図は、はっきりしないところもあるが、貞清が以専法師の子であると記されている。しかし、この以専も初名を貞清といったと書かれた記録もある。それは昭和九年に刊行された『甲斐志料集成』である。
 
 次に『甲斐志料集成』の甲州儒医列伝を示したい。
『甲斐志料集成』
小宮山昌照寺 北巨摩郡熱見村村山西割 浄土真宗西本願寺派 武田家士小宮山一族の香華寺なり。十六世以仙、初名貞清、弘化元年(1844)廿二歳にして入山し、文久元年(1861)四月京都に往き、典医丹家錦小路頼徳の門に学び 始て兼業す。明治三十八年(1905)三月八十三歳にして寂す。
其子、貞斉
初名定清、明治初年(1868)県医学校に学び、次で横浜に往き米医「セメンス」に従遊し、後家業を継ぎ明治二十四年(1891)七月三十九歳にして殆す。
孫、国一郎
内務省試験及第同三十六年九月歿す。享年四十二。兼業三世四十年
 
 甲州儒医列伝には、儒医を専業とするものと、諸務兼業のものを掲げている。
 江戸時代から明治初期にかけては、神職僧侶にして、医術兼業の者が多かった。甲州においても、布教にかかわって兼業者が相当数いた。特に、小宮山貞清の属する浄土真宗西本願寺派は、古来より施薬救療を以って布教の補助とする、宗派として知られていた。
本都塚村(東八代郡一宮町)の浄泉寺も真宗で、有名な怪力和尚(秀山)などが出ている。東本願寺派の僧医は、峡東(東八代・東山梨) に多く存在した。
 ところで、明治三十八年に、八十三歳で歿した以専(以仙)法師も貞清、その以仙の子も貞が定であるが、定清とあって、算額を奉納した貞清は、どちらなのか決めかねるのである。
 以専法師の貞清は、京都の錦小路頼徳の門で学び、かなりの学識を待った人物であるから、和算にも長けていたと思われる。それに子の定清も秀才で県医学校に学びアメリカ人の「セメンス」に師事している。従って、どちらも算額に設問することは、可能とみられる。
 明助三年の算額奉納時の年齢であるが、以専は、文化九年(1812)生れで四八歳である。子の定清は嘉永五年(1852)生れで十八歳である。
 年齢の上からみると、以専の方が円熟しているが、秀才であった定清であってみれば、十八歳に達している点を考えると不可能ではない。
 そこで、小宮山家の系図を信じるか、『甲斐志料集成』の儒医伝の記述を重視するかにある。
 系図では以専法師、儒医伝によると以仙法師とある。この点、古文書などでは、よく当字を使うから、問題がないが、肝心要の貞清(系図)定清(儒医伝)のちがいは微妙である。十六世以仙初名貞清から推測すると、系図の以専法師の子貞清が該当することになる。





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最終更新日  2019年03月04日 16時04分41秒
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