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永禄五年(一六五三)戊の二月二十八日に、信玄公甲府を御立あり、三月北条 氏康子息氏政、武田信玄公子息太郎義信公、両家合せて四万六千余にて松山の 城を攻め給うに、武田勢の先衆甘利左衛門尉、より口から城ちかく取よせ、城 の内より降参仕る。子細は、甘利殿同心頭米倉丹後守と云う弓矢巧者の武士、 き工夫の故、天文二十一年壬子に信州刈臣原の城を信玄公攻め取り給う時、甘 利左衛門尉より口にて、竹を束ね持ちて立て置き、城際へ寄り、跡を崩しては 操り寄りに仕り、甘利家中よく働き、諸手に勝れ候て此の城を攻落すこと、悉 皆米倉丹後守武略の故、かくの如し、今度松山においても米倉丹後を武田の諸 人まね、竹ばかりにも限らず杭柱までからげ集め、武田の語勢是を竹克と名づ けて城近く付寄するは、根本刈屋原の城において、竹を束ねて米倉丹後守付よ りて、味方の手負すくなく利運にしたる故なり。米倉丹後、信玄公の二十人衆 頭とて倅者頭(カセモノガシラ)なれ共、いくさの時御便にありき、武篇度々の覚あ りて弓矢にはたばり有る故、所領を下され、甘利同心頭に定めあづけ下さる。 件の竹束にて松山の城弱り、あけて北条へ渡し、氏康公の利運になるは城の早 く落つる事、米倉が武略、竹束の故なり。
と記している。米倉父子の武勇、甘利米倉主従の情愛は、武士道の鑑というべきであろう。
彦次郎晴継は、寄親甘利左衛門尉の恩情こもる計らいにより九死に一生を得、以後もすぐれた働きをしたが、永禄十二年(一五六九)四月、駿河興津の薩埵山において北条の大軍と合戦し、遂に討死したので、父重継は晴継の弟、五郎兵衛尉忠継を家督として米倉家を継がせた。 永禄十年(一五六七)八月、甘利左衛門尉昌忠は、不幸にも急死したので、重継は甘利家陣代として昌忠の弟の郷左衛門尉信康を助け、甘利衆の指揮をと ったが、天正三年(一五七五)五月、三州長篠の戦いにおいて、信康とともに討死を遂げた。 甘利信康の墓は長篠の西、新城市竹広に、米倉重継の墓は塩山市恵林寺米倉家墓地にある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年03月05日 12時34分35秒
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